【ヴェルサーチェ|ジャンニ・ヴェルサーチェ期】1978年から1997年まで、良趣味の壁を突き破った「やりすぎ」の創業者という決定版

ミラノが禁欲を美徳としていた時代に、金色と露出と神話の紋章を恥じらいなく掲げた男がいた。
ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace)の19年は、「やりすぎ」を悪癖ではなく思想として提示し続けた19年だった。
1978年に設立し、1997年に自宅の門前で撃たれて終わる。
その幕切れの唐突さまで含めて、彼の仕事は一つの主張になっている——欲望を隠さないことは、下品ではなく美学たりうるのか、という主張だ。
この問いには、記事の最後で一度戻る。
まずは、南イタリアの仕立て屋の店先から始める。
仕立て屋の母と、三人のきょうだい
ヴェルサーチェの職人的な確かさは、派手さの対極にある場所から来ている。
ジャンニ・ヴェルサーチェは1946年12月2日、イタリア南端のレッジョ・カラブリア(Reggio Calabria)に生まれた。
母は仕立て屋を営んでいて、彼は幼い頃からその仕事場でファッションに触れて育つ。
布を裁ち、縫い、身体に合わせる——後に彼が掲げる露出も金色も、この手元の確かさの上に乗っている。
この順序は、覚えておいていい。
きょうだいは四人いた。
兄のサント、ジャンニ、末妹のドナテラ。
そして12歳のとき破傷風で亡くなった姉のティナがいた。
この家族のうち三人が、後にひとつのメゾンを動かすことになる。
1972年、ジャンニはミラノへ移った。
デザイナーとして生きるためだ。
ただ、いきなり独立したわけではない。
彼はByblos、Genny、Complice、Callaghan、Mario Valentinoといったブランドで腕を磨いた。
フリーランスとして仕事を始めたのは1968年とされる。
つまり自分の名を掲げるまでに、10年近い下積みがあった。
奔放な演出家として語られる人物が、実は長い修業期を踏んでいる。
この落差も、彼を理解する鍵になる。
1978年、Via della Spigaから
独立の年は、具体的な日付で記憶されるべきだ。
1978年3月28日、ミラノのPalazzo della Permanenteで、ジャンニは初のウィメンズウェアコレクションを発表した。
同じ年、Via della Spigaに最初のブティックを開く。
会社の設立も1978年。
兄サントが経営を、末妹ドナテラがイメージとスタイリングを支える、家族経営の体制がここで始動した。
ドナテラの立場は、最初は補佐だった。
彼女はフィレンツェ大学で文学と言語を学び、週末にミラノの兄のもとへ通っていた。
ミューズであり、批評家であり、アクセサリーや靴やバッグのデザインに関わる存在。
兄の仕事を一番近くで見て、一番遠慮なく意見を言える人物だった。
この距離感が後に効いてくるのだが、それはジャンニの物語の外の話だ。
ここでは兄一人を追う。
設立から数年で、ジャンニはミラノの風景の中にはっきりと名を刻む。
ジョルジオ・アルマーニ、ジャンフランコ・フェレと並び「ミラノの3G」と呼ばれた。
三人の頭文字がGであることにちなんだ呼び名だ。
ただ、同じ「3G」でも、三人の向いている方向はまるで違った。

アルマーニの隣で、逆を向く
ここが、この19年の核心である。
アルマーニが称賛されたのは、贅沢を品よく抑制する機能美だった。
グレーのやわらかなジャケット、削ぎ落とされた線。
北イタリアのラグジュアリーは、慎み深さを美徳としていた。
贅沢は、それを感じさせないことで上等とされた——これが当時の「良趣味」の規範だ。
ヴェルサーチェは、その規範の正面に立って逆を向いた。
露出。
金色。
バロックの過剰な装飾。
地中海の鮮烈な色彩。
古代ギリシャ・ローマの図像。
そしてポップカルチャー。
隠すのではなく、見せる。
抑えるのではなく、全開にする。
彼のメゾンの紋章が、その姿勢をそのまま語っている。
メドゥーサだ。
ジャンニは、故郷レッジョ・カラブリアの古代遺跡で遊んでいた少年時代に見たメドゥーサの図像から、この紋章を得たと語っている。
見た者を石に変える怪物。
つまりこれは、「見られること」そのものを美学に変える宣言だった。
慎ましく目を逸らさせるのではなく、視線を釘付けにして動けなくする。
アルマーニが視線をなだめるなら、ヴェルサーチェは視線を捕らえにいった。
もっとも、当時これを「下品だ」と退けた声は少なくなかっただろう。
良趣味の壁の内側から見れば、金色のメドゥーサは悪趣味の権化に映ったはずだ。
だが彼は恥じらわなかった。
恥じらわないこと自体が、彼の思想だった。

Orotonという、過剰を支える技術
過剰を思想にするには、技術がいる。
これを見落とすと、ヴェルサーチェはただの派手好きになってしまう。
1982年、ジャンニは「Oroton」という素材を開発した。
非常に軽量なチェーンメイルだ。
金属の鎖を編んだ布は、本来重く、扱いにくい。
それを身体に沿って流れるほど軽くした。
液体の金属が肌の上を滑るような、あの独特のドレスは、この素材あってのものだ。
同じ1982年、彼は「ゴールデン・アイ賞」の婦人服デザイナー最優秀賞を受けている。
奇抜さが評価されたのではない。
奇抜さを成立させる仕立ての精度が、評価された。
露出の大きなカッティングも同じだ。
布を極端に落とし込んでも破綻しないのは、身体の構造を熟知した裁断があるからだ。
仕立て屋の母の店先で身につけた確かさが、ここで効いている。
やりすぎに見える服ほど、実は緻密に作られていた——この逆説が、ヴェルサーチェを単なる悪趣味から分けている。

オートクチュールへ、そして妹への贈り物
1989年は、二つの出来事で区切られる。
ひとつ、ジャンニはオートクチュールの領域へ踏み込んだ。
1990年、パリで初のオートクチュールコレクション「Atelier Versace」を発表する。
ミラノのプレタポルテで名を上げた男が、パリの高級仕立ての舞台に立った。
良趣味の本丸であるパリに、過剰の美学を持ち込んだとも言える。
もうひとつ、同じ1989年、彼は若者向けのディフュージョンライン「Versus」を立ち上げた。
これを彼は、妹ドナテラへの「贈り物」として渡している。
補佐役だった末妹に、一つのラインを委ねた。
この贈与が後に何を意味することになるかは、まだ誰も知らない。
モデルを、偶像にした夜
ここで、ファッションの外側が動き始める。
1991年秋冬のショーで、ジャンニはそれまでキャンペーンに起用していたスーパーモデルを、初めてランウェイに立たせた。
ナオミ・キャンベル、リンダ・エヴァンジェリスタ、シンディ・クロフォード、クリスティ・ターリントン、クラウディア・シファー。
彼女たちが同じランウェイを歩いた瞬間、モデルは服を見せる存在から、それ自体が見られる偶像へと変わった。
「スーパーモデル」という時代の現象の火付け役は、この演出だった。
なぜ彼にそれができたのか。
メドゥーサの思想を思い出せばいい。
彼のメゾンは最初から「見られること」を中心に据えていた。
服だけでなく、服を着る身体、その身体を持つ人間そのものをスペクタクルにする。
モデルを偶像に押し上げるのは、彼の美学からすれば自然な一歩だった。
服・モデル・音楽・セレブリティ・映画。
ジャンニはこれらを一つの祝祭として束ねた。
オペラやバレエの衣装を手がけ、エリック・クラプトン、ダイアナ妃、マドンナ、エルトン・ジョンの装いをデザインした。
1995年には映画『ジャッジ・ドレッド』の衣装も担当している。
ファッションを、エンターテインメントの中心へ引き入れたのだ。
一着が、世界の話題になる
その回路が最も鮮やかに作動したのが、一着の黒いドレスだった。
1994年、エリザベス・ハーレイが映画『フォー・ウエディング』のプレミアで、ジャンニのデザインした黒いドレスを着た。
サイドが大きく開き、その開きを金色の安全ピンで留めただけの一着。
通称「セーフティピン・ドレス」。
翌日、彼女は世界中で知られる存在になった。
服が有名にしたのか、着た人が服を有名にしたのか。
おそらく両方だ。
そしてその相互作用こそ、ジャンニが設計した回路だった。
一着の服が、ニュースとして、話題として、世界規模で消費される。
彼はその仕組みを19年かけて組み上げていた。
安全ピンという、本来は裏方の留め具。
それを前面に、しかも金色で見せる。
隠すべきものを装飾に変える——これもまた、見せることの美学の変奏だ。
カーサ・カスアリーナの門前で
そして、終わりは唐突に来る。
1997年7月15日の朝、ジャンニ・ヴェルサーチェはマイアミビーチの自宅、カーサ・カスアリーナ(Casa Casuarina)の門を開けようとしていた。
そこで連続殺人犯アンドリュー・クナナンに銃で撃たれ、命を落とした。
50歳だった。
ファッションとは何の関係もない暴力が、何の前触れもなく彼の19年を断ち切った。
死の不条理さが、かえってメゾンに悲劇と不死のアウラを与えたとも言われる。
見た者を石に変えるメドゥーサを掲げた男が、自宅の門前で動きを止められた——その図像の符合を、人は後から語りたがった。
兄サントがCEOを、妹ドナテラがクリエイティブディレクターを引き継ぐ。
かつて「贈り物」としてVersusを受け取った末妹が、今度はメゾン全体を受け取った。
ドナテラがそこから何を作り、何と闘ったかは、別の物語に属する。
ここで追うべき一人は、門前で終わっている。
隠さないことは、肯定だったか
冒頭の問いに戻る。
欲望を隠さないことは、下品ではなく思想たりうるのか。
ジャンニ・ヴェルサーチェの19年は、それに「然り」と答えようとした試みだった。
慎み深さを上等とする良趣味の規範に対し、彼は露出と金色とバロックと神話を、恥じらいなく正面から掲げた。
しかもそれを、仕立て屋の母から受け継いだ確かな技術で裏打ちした。
やりすぎに見える服が、実は最も精密に作られていた。
その逆説の中に、彼の答えがある。
もっとも、彼が全開にした欲望の肯定が、本当に人間を自由にしたのか、それとも新しい消費の回路に人を縛り直しただけなのか——そこはまだ、きれいには答えが出ていない。
一着のドレスが世界を駆けめぐる仕組みを作った人物が、その仕組みの行き着く先まで見届けることなく、門前で倒れたのだから。
残されたのは、金色のメドゥーサと、見られることを恐れなかった19年だ。
あの紋章は、今も見る者をまっすぐ見返してくる。
FAQ
ジャンニ・ヴェルサーチェはいつブランドを設立したのですか?
1978年、ミラノで設立しました。
同年3月28日にPalazzo della Permanenteで初のウィメンズウェアコレクションを発表し、Via della Spigaに最初のブティックを開いています。
兄サント、妹ドナテラとの家族経営として始動しました。
メドゥーサの紋章はなぜ選ばれたのですか?
ジャンニが、故郷レッジョ・カラブリアの古代遺跡で遊んでいた少年時代に見たメドゥーサの図像に由来します。
見た者を石に変える怪物を紋章に据えたことは、「見られること」を中心に置く彼の美学と重なります。
ジャンニ・ヴェルサーチェはどのように亡くなったのですか?
1997年7月15日の朝、マイアミビーチの自宅カーサ・カスアリーナの門前で、連続殺人犯アンドリュー・クナナンに銃で撃たれて亡くなりました。
その後、妹ドナテラがクリエイティブディレクター、兄サントがCEOとしてメゾンを引き継いでいます。



