【Celine|マイケル・コース期】アメリカのグラマーがパリのB.C.B.Gに火をつけた7年間

パリの控えめな品位に、はじめて「欲しがられるための派手さ」を持ち込んだ男がいる。
マイケル・コース(Michael Kors)。
1997年から2004年まで、セリーヌ(Celine)の創作を率いたアメリカ人だ。
彼のした仕事を一言で言うなら、これだった——他人に見せびらかすことを恥じてきたメゾンに、見せびらかす歓びを教えたのである。
それは救済だったのか、それとも汚染だったのか。
答えを出す前に、彼が引き継いだものを見ておきたい。
コースが受け取ったのは、あえて目立たないための美学だった
セリーヌの核は、もともと「欲望をあおらないこと」にあった。
創業は1945年。
セリーヌ・ヴィピアナ(Céline Vipiana)と夫リシャール(Richard Vipiana)が、パリで子供靴のオーダーメイド店として始めた。
身体に合わせて一足ずつ誂える——出発点からして、宣伝より採寸の商売だった。
1960年代に婦人靴とプレタポルテへ広がり、そこで確立したのがB.C.B.G、すなわちBon Chic, Bon Genre。
パリの上流社会向けの、機能的で日常的な服の美学である。
Bon Chic, Bon Genre。
直訳すれば「良い趣味、良い育ち」。
だがこの語が指すのは、豪奢さではない。
むしろ逆だ。
値札を見せない、ロゴを誇示しない、身なりで黙って自分を証明する——それがブルジョワの品位だった。
1966年にはレザーグッズへ、1973年には凱旋門に着想を得た「Cのブラゾン・シェーヌ」ロゴへ。
物としての完成度を静かに積み上げる、そういうメゾンだったのである。
コースの直前、1988年から1997年まで芸術監督を務めたのがペギー・ウィン・キン(Peggy Huynh Kinh)だ(退任年は1996年説もある)。
彼女がどんな服を作ったかの記録は乏しい。
ただ、コースが受け取った土壌がこの「あえて目立たないための美学」だったことは動かない。
その上に、彼はアメリカを注いだ。
1996年、メゾンはLVMHの一部門になっていた
タイミングを見落とすと、コース期の意味を取り違える。
セリーヌは1987年、ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)に資本の一部を握られていた。
そして1996年、27億フラン——当時のおよそ5億4000万ドルで、LVMHに正式に組み込まれる。
コースが招かれたのは、その翌年である。
つまり彼は、独立メゾンの後継者としてではなく、巨大コングロマリットの一部門を任される人物として来た。
これは小さくない違いだ。
LVMH傘下のブランドに求められるのは、まず認知度であり、次に欲望である。
控えめな品位は美徳ではあっても、四半期の数字を動かさない。
アルノーが必要としていたのは、セリーヌという名前を「知られ、欲しがられる」状態へ押し上げる人間だった。
そこにアメリカ人を選んだ。
この人選自体が、一つの判断表明だったのだろう。

コースが持ち込んだのは、隠さない欲望だった
彼のした仕事は、B.C.B.Gの否定ではない。
B.C.B.Gに火をつけることだった。
マイケル・コースというデザイナーの本領は、アメリカ的なグラマーにある。
日焼けした肌、リゾート、休暇、余裕——健康的で分かりやすい豊かさの美学だ。
パリの「隠す品位」とは、そもそも欲望の扱い方が違う。
パリが値札を隠すなら、アメリカは値札の高さそのものを堂々と楽しむ。
コースはセリーヌを近代化し、ブランドをより認識されやすく、より欲しがられるものにした——記録が伝えるのは、この一点である。
咀嚼すればこうなる。
彼は、身なりで黙って証明する女ではなく、身なりで歓びを口に出す女を想定し直した。
B.C.B.Gの実用性という骨格は残しつつ、その上に「見られたい」という欲望を素直に乗せたのだ。
たしかに、これはメゾンの核を裏切る行為にも見える。
控えめさを売りにしてきたブランドに、真逆の派手さを注ぐのだから。
しかし、ここで見たいのは別の角度だ。
派手さを注いだからこそ、多くの人がはじめてセリーヌという名前を認識できた、という順序である。

バッグ二つが、認知と欲望を具体物に変えた
抽象論はここまでにして、コースが残した物を二つ挙げる。
どちらもバッグだ。
2002年、Boogie-bag。
2003年、Paris-Macadam。
なぜバッグなのか。
セリーヌはもともとレザーグッズを核とするメゾンだった。
物としての完成度への信頼が、B.C.B.Gの土台にあった。
コースはその土台を捨てず、むしろそこを勝負どころに選んだ。
服の派手さは着る人を選ぶが、バッグは選ばない。
認知度と欲望を最も広く運ぶ乗り物が、バッグなのである。
Paris-Macadam——マカダムとは舗装路のこと。
パリの路面を思わせるこの名は、凱旋門由来のCのモチーフを持つメゾンの記号性を、あらためて商品として立ち上げる試みだった。
これらが具体的にどれだけ売れたかの数字は、手元の記録にない。
だが、コース期にセリーヌが「より欲しがられるもの」になったという事実と、その象徴がこの二つのバッグだったという事実は、並べて読むべきものだ。
彼は思想を語らなかった。
物を出した。
それがアメリカ人らしいやり方だったのかもしれない。

退任は2004年か、2003年か
コースがいつ去ったのか、これは実は確定していない。
資料は割れている。
1997年から2004年までとする記録が多い一方、1997年から2003年までとするものもある。
ここは断定を避けたい。
確かなのは、彼の後を2004年から2005年にロベルト・メニケッティ(Roberto Menichetti)が、2005年から2008年にイヴァナ・オマツィック(Ivana Omazic)が継いだこと。
そして2008年、フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)が来て、すべてが反転したことだ。
ファイロがしたのは、コースが注いだ欲望を、もう一度削ぎ落とすことだった。
ロゴを誇示しない知的なミニマリズム。
「静かな贅沢(quiet luxury)」。
他人の視線のためではなく、自分自身のために着る服——ファイロのセリーヌは、コースが持ち込んだ「見られたい」を、正面から否定して成立した。
ここでようやく、冒頭の問いに戻れる。
コースの7年は、救済だったのか汚染だったのか。
その両方だった、というのが妥当な見立てだろう。
彼がいなければ、セリーヌはLVMHの中で認知度を欠いたまま埋もれていたかもしれない。
名前が知られていなければ、ファイロの禁欲的な美学が世界に届くこともなかった。
派手さで名を上げた土台の上に、静けさが載った。
この順序を逆にはできない。
パリの控えめな品位に火をつけた男は、その火が後に静かな贅沢へと燃え変わることまでは知らなかっただろう。
子供靴の採寸から始まったメゾンは、こうして「誰のための、どんな贅沢か」という問いを、後継者が代わるたびに問い直していく。
コースは、その問いに「見られるための贅沢だ」と答えた最初の一人だった。
答えは後に覆される。
だが、答えを立てなければ、覆すこともできなかったのである。
FAQ
マイケル・コースはセリーヌで何年間、創作を率いたのですか
1997年から在任し、退任年は資料によって2004年説と2003年説があります。
本記事では両論併記の立場をとっています。
いずれにせよ、約7年間メゾンの創作を主導しました。
コース期を代表するバッグは何ですか
2002年発表のBoogie-bagと、2003年発表のParis-Macadamです。
どちらもセリーヌの核であるレザーグッズの伝統の上に立ちつつ、ブランドの認知度と商業的な魅力を押し上げた具体物として位置づけられます。
なぜコースの後にフィービー・ファイロの「静かな贅沢」が可能になったのですか
コースがアメリカ的なグラマーでセリーヌの名を広く知らしめた土台があったからです。
認知度を得たメゾンの上に、2008年から加わったファイロが逆方向のミニマリズムを載せました。
派手さで名を上げた順序があってこそ、静けさが思想として世界に届いたと考えられます。



