エルメス(Hermès)は、1837年にパリで馬具工房として始まった、フランスの高級皮革・服飾メゾンだ。核心は一つ。ロゴでも流行でもなく、一人の職人が一つの鞍を最初から最後まで約40時間かけて仕上げる、その「遅さ」を価値の中心に据えたことにある。
エルメスを語るなら、鞄より先に鞍から入るのが正しい。世界でいちばん有名なバッグを持つメゾンが、いまも年に400〜500台の鞍を手縫いしている。その矛盾こそが入口であり、最後まで引っかかったまま残る問いでもある。
History
第1章 ティエリ・エルメス(Thierry Hermès)期 — ドイツ生まれの職人がパリで鞍を縫う
エルメスの物語は、意外な場所から始まる。創業者ティエリ・エルメス(Thierry Hermès)は生粋のパリジャンではない。1801年にドイツのクレーフェルト(Krefeld)で生まれ、やがてパリに出て馬具工房を構える。
創業は1837年。馬が交通と物流の主役だった19世紀のヨーロッパで、良い馬具は命を預ける道具そのものだった。ティエリが選んだのは、二本の針と一本の蝋引き麻糸を往復させて縫うクチュール・セリエ(couture sellier=サドルステッチ)だ。糸が切れても縫い目がほどけない、頑丈さのための技法である。この手の記憶が、創業以来ずっとメゾンの背骨であり続ける。
その仕事は早くに認められ、ティエリは1855年と1867年のパリ万博で一等賞を得ている。
もっとも、最初の工房がどこにあったかは記録が揺れる。パリ説とノルマンディー(Normandy)説があり、出発点すら一枚岩ではない。1878年、ティエリは77歳で世を去る。彼が残したのは、まだ鞄一つないただの馬具屋だった。

第2章 シャルル=エミール/エミール=モーリス(Charles-Émile / Émile-Maurice Hermès)期 — 馬具屋が鞄を作り始める
道具屋がなぜ、道具を運ぶための鞄を作ったのか。鞄のメゾンへの転回は、この素朴な問いから始まる。
1880年、息子のシャルル=エミール・エルメス(Charles-Émile Hermès)が事業を継ぎ、本社をパリの24 Rue du Faubourg Saint-Honoréへ移した。この番地は、いまも本社として同じ場所に建っている。
1900年、メゾンは初めてのバッグを世に出す。オー・タ・クロワ(Haut à Courroies=HAC)だ。着想からして華やかなものではなく、騎手が鞍を運ぶための実用品だった。エルメスの鞄作りが、ファッションではなく馬具の延長として始まったことを、この一点が物語る。
1902年にシャルル=エミールが退くと、息子のアドルフ(Adolphe)とエミール=モーリス(Émile-Maurice Hermès)が継ぎ、社名をエルメス・フレール(Hermès Frères)に改めた。エミール=モーリスは1914年、ロシア皇帝に鞍を納め始める。だが時代の風は馬具に逆風だった。馬具や付属品の販売が落ち込み、アドルフは引退。1919年ごろ、エミール=モーリスが彼の持分を買い取り、単独で舵を握る。
馬の時代が終わるなら、次の時代の留め具を握る。
エミール=モーリスの判断は速かった。1922年、彼はカナダで軍用車のボンネットに使われていた米国製の留め具に着想を得て、ジッパーの独占権を手にする。この仕組みは、以後多くの鞄に使われることになった。こうして事業は馬具から服飾へ広がっていく。1925年には初のメンズ既製服としてゴルフジャケットを発表し(この年には1918年に英国皇太子向けの革ジャケットを最初とする異説もある)、1927年には宝飾、1928年には時計とサンダルが加わった。

第3章 ロベール・デュマ(Robert Dumas)期 — 名前が後から付く鞄たち
エルメスの二大神話は、この人物の手から生まれた。ロベール・デュマ(Robert Dumas)は、エミール・エルメスの娘婿にあたる。
1937年、最初のシルクスカーフ「Jeu des omnibus et dames blanches」が生まれる。カレ(scarf)の長い連作の第一作であり、その多くをデュマ自身が手がけた。同じ頃、彼はアンクル・チェーン(Chaîne d’ancre)のブレスレットも生んでいる。
そして1930年代、彼は一つのバッグを設計した。台形のシルエット、両脇のマチ、六角形の金具を持つストラップの留め具、独特のターンロック金具。のちにケリー(Kelly)と呼ばれるバッグである。この四つの要素は、いまも著作権と国際的な図形商標で守られている。名前が付くより前に、形そのものが固有名詞になっていたわけだ。
1951年、デュマはエミール・エルメスから事業のトップを引き継いだ。道具として設計されたものが、時を経て人の名を得る。その型を作ったのが彼だった(ケリーの命名にまつわる誤解は、後段「よくある誤解」で扱う)。

第4章 ジャン=ルイ・デュマ(Jean-Louis Dumas)期 — バーキン誕生と、外部の才を招く決断
このメゾンが「更新を拒みながら更新の才を招く」という矛盾を制度にしたのは、この時代だ。
1984年、エルメスは英国の女優・歌手ジェーン・バーキン(Jane Birkin)に敬意を表したバッグを生む。バーキン(Birkin)である。カーフ、オーストリッチ、リザード、クロコダイルといった革で作られ、価格は1万ドルから10万ドル超まで、桁違いに開く。この鞄が起点をどこに持つのかという誤解については、後段で正す。
ジャン=ルイ・デュマ(Jean-Louis Dumas)の判断で決定的だったのは、鞄より人事のほうかもしれない。彼は寡黙なメゾンに、外部の異物を意図的に招き入れた。1988年、メンズのクリエイティブディレクターにヴェロニク・ニシャニアン(Véronique Nichanian)を任命する。そして1997年、女性既製服にマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)を据えた。饒舌さを嫌うメゾンが、当代でもっとも語られるデザイナーたちを迎える。この矛盾を経営の型に変えたのがデュマだった。
彼の時代を、店の外から支えた人物も忘れがたい。ウィンドウディスプレイのレイラ・マンシャリ(Leïla Menchari)である。1960年代初頭にアニー・ボーメル(Annie Beaumel)とフォーブール・サントノーレ店の窓を手がけ始め、1978年からは単独で、2013年にアントワーヌ・プラトー(Antoine Platteau)が継ぐまで、数十年その窓を作り続けた。一人の手が長い年月をかけて一つの様式を刻む。それはこのメゾンが鞍で信じているものと、そっくり同じ論理だった。

第5章 ヴェロニク・ニシャニアン(Véronique Nichanian)期 — 色から始める、38年の長期政権
なぜ、有名メゾンのメンズが38年も一人の手にとどまり続けたのか。エルメスのメンズは、他所の入れ替わりの激しさとは無縁の分野だった。ヴェロニク・ニシャニアン(Véronique Nichanian)は1988年から2026年まで、同じ座にあり続けた。
彼女の仕事の順序が、そのまま個性になっている。始まりはいつも色だ。まず色を探し、その色を出すための独自の生地を開発し、それから形・線・シルエットへ向かう。多くのデザイナーが形から発想するのとは逆で、素材が先、シルエットは後。生地が決まらなければ服の姿は決まらない、という順序を彼女は38年変えなかった。
経歴も、この順序を裏づける。彼女はパリのÉcole de la Chambre Syndicale de la Couture Parisienneで女性のクチュールを学び、セルッティ(Cerruti)で12年間メンズを手がけてからエルメスへ来た。仕立ての技術と、生地への執着。その二つを持ち込んだ人だった。
2026年、彼女は最後のコレクションで退いた(資料はFW26とSS26で揺れる)。フェアウェルショーは、数十年分の彼女のお辞儀を集めた映像で幕を開け、59体のシルエットで締めくくられた。
問題は、この先だ。後任は事実の範囲では定まっていない。38年かけて一人の手に染み込んだ様式は、そのまま経営上のリスクでもある。属人的に積み上げた文法は、渡す相手を選ぶ。もっとも、このメゾンは女性既製服でマルジェラ、ゴルチエ、ルメールと外部の才を継いでは自らの文法へ吸収してきた。その外部起用モデルが、メンズの長期政権のあとにも効くのか。ここは、まだ答えが出ていない。

第6章 マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)期 — 過激ではなく、寡黙を選んだ6年
前衛の代名詞が寡黙のメゾンに入れば、脱構築が炸裂するはずだった。事実はむしろ逆だ。
1997年4月(10月説もある)、ジャン=ルイ・デュマの起用で、マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)が女性既製服のクリエイティブディレクターに就いた。クロード・ブルエ(Claude Brouet)の後任として彼を推したのは、デュマの娘サンドリーヌ(Sandrine Dumas)だった。
2003年までの6年、彼は12のコレクションに署名した。そこで追求したのは、過激さではない。快適さ、時を超える普遍性、手触り、そして抑制の効いた地味さだった。色数を絞ったモノクロームを基調とする。自らの代名詞とされる前衛とは、むしろ対極にある選択だった。
「ノーロゴ」の哲学は、彼らしいやり方で服に落ちた。既製服のボタンに六つの穴を開け、糸が控えめな「H」を描くようにしたのだ。誇示せずに帰属を示す。この逆説的な記号論が、彼のエルメス時代の核心にある。
発明も静かだった。深いVネックのヴァルーズ(vareuse=チュニック)、鞄のように丸めて持てるジャケット、取り外せる襟や留め具のコート。菱形スカーフのロザンジュ(losange)を生み、ケープ・コッド(Cape Cod)時計の、ベルトを二重に巻くダブルトゥール(double tour)を作ったのも彼だ。
後年、この6年は「Margiela: les années Hermès」として、アントワープのモード・ミュージアム(Mode Museum)とパリの装飾芸術美術館(Musée des Arts Décoratifs/MAD)で回顧展になった。前衛の代名詞が、寡黙のメゾンで見せた別の顔。それが展示に値するものだった、ということだ。

第7章 ジャン=ポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)期 — 25年ぶりの他社仕事
これは、外部起用のなかでも極めて例外的な出来事だった。
2003年(2004年説もある)、ジャン=ポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)がエルメスのチーフデザイナーに就く。彼にとって、他社ブランドを手がけるのは25年ぶりのことだった。自らの名を掲げてきた男が、寡黙なメゾンの文法に入る。それだけで事件だった。
2003年から2008年にかけて、彼はシルエットの脱構築を進めた。肩に掛けられるよう縦長にしたショルダー・バーキン(Shoulder Birkin)、折り畳めるケリー・フラット(Kelly Flat)。既存の名品を、あえて崩してみせる仕事だ。
2009年から2010年には、より大胆な鞄を放った。フリンジのついたケリー、ピラミッド型スタッズのメドールクラッチ(Medor、2009年春)、型押しのストラップとロックを持つシャドウ・バーキン(Shadow Birkin、2009年秋)、ラケットケースを備えた50cmのスポーティ・ケリー50ルトゥルネ(2010年春)。エルメスの静けさに、彼の遊びが混ざった時期だった。
最後のコレクションは2011年春夏。25年ぶりの他社仕事は、こうして終わる。

第8章 クリストフ・ルメール(Christophe Lemaire)期 — 遊牧の優雅さと、静かな引き算
ゴルチエの遊びのあとに来たのは、引き算の人だった。
クリストフ・ルメール(Christophe Lemaire)は、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)でインターンを経験し、1991年に自身の女性ラインを、1995年にメンズを立ち上げた人物。ラコステ(Lacoste)で10年働いた経歴も持つ。彼がゴルチエの後任として、2011年秋冬から指揮を執った。
最初のFW11は、毛皮とシルクプリントに、鷹狩りや弓術の主題を引いた。続くSS12はミニマルでオリエンタリズム的。AW12は「贅沢な遊牧民のためのアンドロジナスな優雅さ」を掲げ、ガウチョやロシアの草原を参照した。ここには一貫して、静かで移動する者のイメージがある。
2012年9月30日、パリのJeu de Paume美術館で見せたSS13では、流れるようなスカーフをそのままパンツやドレス、トップスに仕立てた。モザイク柄やトロピカルなスカーフプリントが揺れた。カレの技術を、服そのものに溶かす試みだ。
2014年、ルメールはエルメスを去る。派手さではなく、静けさの側から様式を更新した3年だった。

第9章 ナデージュ・ヴァネ=シビュルスキ(Nadège Vanhee-Cybulski)期 — 職人の作業着を、モードの主題に
異国の物語に頼らず、デザイナーは何を主題にできるのか。ヴァネ=シビュルスキは、遠くではなくメゾンの内側へ目を向けた。
ナデージュ・ヴァネ=シビュルスキ(Nadège Vanhee-Cybulski)は1978年生まれ、ベルギーのアントワープ王立芸術学院(Royal Academy of Fine Arts Antwerp)で学んだ。マルジェラのもとで2005年から2008年まで働き、フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)のセリーヌ(Céline)で3年、その後ニューヨークのザ・ロウ(The Row)を経ている。2014年、彼女はルメールを継いで女性既製服のアーティスティックディレクターに就いた。20年ぶりの女性起用である。
彼女が繰り返し参照したのは、遠い異国ではなく、メゾンの内側だった。2017年秋のコレクションは、エルメスの職人が身につける革のエプロンに着想を得ている。色調はレトロで、バターミルクやキャラメル、ライラック、エメラルドグリーンが並んだ。色の名前を眺めるだけで、彼女が最初に色から服を組み立てる人だとわかる。
そのまなざしが最もはっきり形になったのが、ある春の一体だ。パンタン(Pantin)の革製品キャンパスで職人が着る制服をもとに、彼女は革のポンチョを仕立てた。ランウェイに現れたlook 27は、砂のベージュや大地の色をまとい、工房の作業着をそのまま歩かせたような姿だった。2019年秋冬でも彼女は革そのものを掘り直し、ラムスキンのマイクロショーツや黒革のスカート、キャメルヘアのコートを並べている。
職人の作業着を、そのままモードの主題にする。誇示ではなく、内側の労働へ目を向ける姿勢がここにある。ちなみに彼女は娘に、テキスタイルデザイナーのイニッド・マークス(Enid Marx)にちなんでイニッド(Enid)と名付けた。

第10章 統治をめぐる攻防 — LVMHの接近と、家族の防衛
このメゾンにとって、最大の危機はデザインではなく所有をめぐって起きた。
2010年、ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)率いるLVMHが、エルメス株17%の保有を開示する。持分は最終的に約23%まで達した。ラグジュアリー産業の巨人が、独立を掲げるメゾンに手を伸ばした瞬間だった。
エルメスの防衛は、資本の構造そのものだった。一族は全体で資本の約66.7%、議決権の76%超を握る。その中核が、2010年12月(2011年説もある)に設けられた持株会社H51 SASだ。H51が単体で資本の約50.2%を握り、20年間の売却禁止(ロックアップ)契約でメンバーの市場売却を封じた。デュマ(Dumas)、ゲラン(Guerrand)、プエシュ(Puech)という三大系統が、この囲いを守った。
防壁は二重だった。エルメスはフランスの株式合資会社(commandite)で、家族が支配するÉmile Hermès SASが業務執行社員を務める。この形態では、たとえ市場で株を買い集めても、業務執行社員を外部から交代させられない。つまり普通の上場企業のように取締役会を制圧しても経営権は取れない。株を握るだけでは無力、というわけだ。ここにH51のロックアップが重なる。株を売らせず、たとえ買われても経営権は渡さない。
結果、LVMHは2014年に保有株を自社株主へ分配して手を引いた。
指揮系統は三層で回る。会長は6代目のアクセル・デュマ(Axel Dumas)、アーティスティックディレクターは従兄弟のピエール=アレクシ・デュマ(Pierre-Alexis Dumas)。そして各デザイナーの上流には、実務執行の長として会長職の下に敷かれる経営の層がある。ニシャニアンを任命したのが当時の会長ジャン=ルイ・デュマ、マルジェラやゴルチエを招いたのも同じ会長の判断だったように、誰を創作の座に据えるかは執行と会長の層が握ってきた。創作・会長・執行の三層が、指揮系統を分けて動く。
数字は勝者のそれだ。2025年4月には時価総額が2430億ユーロを超えた。2024年は売上152億ユーロ(約146.8億ユーロとする計算もある)、純利益46億ユーロ、営業利益率40.5%。従業員は世界で25,000人以上、うち7,000人が職人である。
この40.5%という営業利益率は、単一のメゾンで出す水準としては稀だ。企業グループを束ねるLVMHでさえ、グループ全体の営業利益率は概ね25%前後にとどまる。規模を広げれば利益率は均されるのが常で、エルメスはそれを一つのメゾンで、しかも量産に走らず達成している。希少性を人為的に保ち、値引きをせず、内製比率を高く保つ。その経営が数字に表れたかたちだ。
ただし、成長の中身を見ると偏りが浮かぶ。2025年上半期、レザーグッズと馬具の売上は11.3%増の35.8億ユーロ、対して服飾・アクセサリーは4.3%増の22.5億ユーロだった。この二部門だけで見れば、レザーグッズと馬具が全体の6割を占める。牽引しているのは、バーキンやケリーを含むレザーグッズだ。
この期間はラグジュアリー全体が中国市場の減速に苦しんだ局面でもあり、多くの同業が伸び悩むなかでエルメスは二桁成長を保った。強さの証であると同時に、成長がこの一事業に大きく依存する構造的リスクでもある。神話化された鞄が支える限り、その神話が揺らげば全体が揺らぐ。とはいえ、その神話がいつ揺らぐのかは誰にも読めない。勝者の数字は、その一点への集中の裏返しでもある。

不変の核(ブランドDNA)
エルメスのDNAは、鞍作りの手仕事にある。それ以外の要素は、すべてこの一点から派生している。
第一に、クチュール・セリエ(couture sellier)。二本の針と蜜蝋を引いた一本の麻糸を往復させて縫う、馬具由来の技法だ。もっとも、これは象徴であって全体ではない。一つのバッグでこの手縫いが占める割合は10%を超えず、主に強度を要する箇所や視覚的なデザイン要素として使われる。
第二に、一貫生産主義。製品の55%を内製工房で作り、75%をフランスで製造する。工程を細分化して速度と規模を追う工業的分業に、真っ向から背を向ける論理だ。誂えの鞍は一人の職人が最初から最後まで約40時間かけて組み上げる。
第三に、装飾を抑え、耐久性を素材と時間で保証する思想。カレも、ケリーも、バーキンも、時間をかけて名を得た。後から神話化されるプロダクトだ。
そして第四に、家族による長期支配と、Euronextでの上場の両立。この統治モデル自体が、独立を守るための装置になっている。

矛盾・批評:反ロゴを掲げた鞄が、最も雄弁なロゴになった
エルメスの思想と現実は、いくつかの点で正面から衝突する。ここは礼賛では済まない。
最大の矛盾はバーキンにある。エルメスは「使い捨てへの抵抗」「持続可能性」「再生可能な自然素材」を掲げる。だがバーキンはクロコダイルやリザード、オーストリッチの皮革を用い、価格は10万ドルを超え、希少性そのものが投機と誇示の対象になっている。反ロゴ・反誇示を思想としながら、この鞄自体が世界でもっとも雄弁なステータス記号となった。
マルジェラが六つ穴のボタンで「誇示せずに帰属を示す」記号論を作ったメゾンで、鞄が最大の誇示装置になっている。この逆説は、思想の敗北とも読めるし、思想が抗いきれなかった市場の力とも読める。それでも、判断は簡単ではない。作り手が誇示を狙ったのではなく、市場が勝手に鞄を記号に変えたのだとすれば、責めるべきは誰なのか。
統治にも同じねじれがある。エルメスは家族支配を守るため、H51や20年のロックアップ協定で株を囲い込む。同時にEuronextに上場し、市場の資本を利用する。時価総額2430億ユーロ超、営業利益率40.5%。近代資本主義の勝者そのものだ。「独立」を掲げる者が、市場のなかで最も勝っている。
サステナビリティにも留保が要る。エルメスはLWG認証の革やESG目標、動物福祉の基準を掲げる。ただし希少動物の皮革を用いる以上、その姿勢がどこまで一貫するかは問われ続ける。制度の整備と、素材選択の現実は、必ずしも同じ方向を向いていない。

よくある誤解
ケリーはグレース・ケリーのために作られた。 これは順序が逆だ。設計したのはロベール・デュマで1930年代。名前が付いたのは1956年、女優グレース・ケリー(Grace Kelly)が持つ姿が撮影されたことがきっかけだった。デザインが先、名前は20年後。この一点が、後述の「神話」を読み解く鍵になる。
バーキンはセレブのための高級品として生まれた。 確かに1984年、ジェーン・バーキンに敬意を表して生まれた鞄ではある。だが起点はセレブ性ではない。メゾンの原点は1837年の馬具工房であり、1900年のHACという実用品だ。バーキンもケリーも、その馬具づくりの技術と発想の延長線上にある。
エルメスは上場企業だから、いつでも買収されうる。 Euronextに上場しているのは事実だが、一族が資本66.7%・議決権76%超を握る。2010年のLVMHの接近も退けた。
鞍作りは看板だけの過去の遺物だ。 いまも年に400〜500台の鞍が作られ、1909年以降のすべてが番号付きで記録される。誂えは一人の職人が約40時間で組み上げる。
マルジェラ時代は前衛が炸裂した実験場だった。 むしろ逆で、快適さ・普遍性・抑制を追求した。過激さの代名詞とは対極の6年だった。

神話と、その裏側
エルメスが繰り返し語る神話は、こうだ。1837年、クレーフェルト生まれのティエリ・エルメスがパリで馬具工房を開く。1900年、鞍を運ぶためのHACが生まれる。1930年代の鞄が、のちにグレース・ケリーの名で「ケリー」になる。1984年、ジェーン・バーキンに献じたバーキンが生まれる。道具として設計されたものが、時を経て人の名を帯び、神話に変わる。この物語が何度も語られる。
裏側を見れば、神話は偶然の産物でもある。ケリーの名は写真という偶然から付いた。バーキンの起点も実用品だった。あらかじめ計画された伝説ではなく、時間が後から与えた名前の連なりだ。
エルメスの本当の凄みは、伝説を作る力ではない。名前が後から付くまで、同じ物を作り続けた持続のほうにある。狙って神話を仕込んだのではなく、変えずに待った結果として、偶然が神話になった。

こぼれ話
ジッパーの発想は、意外にも軍用車から来た。1922年、エミール・エルメスがカナダで軍用車のボンネットに使われていた米国製の留め具を見て、その独占権を得た。馬具屋が近代の機械部品に目を留めたわけだ。
障害馬術用のフォーブール(Faubourg)サドルは、世界ランク2位の騎手ジェローム・ゲリー(Jérôme Guéry)と共同開発された。馬の背をEquiscan®で100点測定して誂える。価格は11,000ドル。看板ではなく、いまも現役の道具である。

行き着く上位概念
エルメスが問うているのは、結局これだ。大量生産と即時消費を前提とする近代において、手仕事の遅さと時間の積み重ねは、なお「価値」の中心たりうるか。
このメゾンの答えは、時間そのものを味方にすることだった。職人技という「遅さ」を稀少資源として制度化し、家族支配で長期の時間軸を守る。ケリーもバーキンも、狙って神話にしたのではなく、変えずに作り続けた時間が偶然に名前を与えた。更新を宿命とするモードのなかで、変わらないことを問いに変えてきたのだ。
その一方で、マルジェラやゴルチエ、ヴァネ=シビュルスキら外部の才を招いては、自らの寡黙な文法へ吸収する。更新を拒む思想を、更新の圧力のなかでどこまで純度を保てるか。その緊張こそが、このメゾンの運命であり続ける。第5章で開いたままにした問い――ニシャニアンの後任という空白は、まさにこの緊張が最も鋭く突き出た一点だ。38年かけて一人の手に染みた文法を、次の誰かへどう渡すのか。外部の才を吸収してきたモデルが、38年分の属人性の前でも効くのか。ここだけは、まだ答えが出ていない。
冒頭の像に戻ろう。一つの鞍を最初から最後まで約40時間かけて縫う、一人の職人。世界でいちばん有名なバッグを持ちながら、そのメゾンはいまもその職人の手元を捨てていない。ここで問われているのは鞄の値段ではなく、一人の人間が一つの物にかける時間を、どこまで価値と呼び続けられるかということだ。その職人が針を動かし続けるかぎり、エルメスの矛盾は、解決すべき欠陥ではなく、立ち続けるための姿勢であり続ける。

FAQ
エルメスはいつ、誰が創業したのか?
1837年、ティエリ・エルメス(Thierry Hermès)がパリで馬具工房として創業した。ティエリは1801年にドイツのクレーフェルト(Krefeld)で生まれている。バッグではなく、馬具・鞍作りがメゾンの出発点だ。

ケリーバッグとバーキンバッグの名前の由来は?
ケリーは1930年代にロベール・デュマ(Robert Dumas)が設計し、女優グレース・ケリー(Grace Kelly)が持つ姿が撮影されたことから1956年に命名された。デザインが先で、名前は20年後だ。バーキンは1984年、英国の女優・歌手ジェーン・バーキン(Jane Birkin)に敬意を表して生まれた。

エルメスは上場しているのに、なぜ買収されないのか?
Euronext Parisに上場しているが、一族が資本の約66.7%、議決権の76%超を握る家族支配企業だからだ。加えてフランスの株式合資会社という形態のため、市場で株を買い集めても業務執行社員を外部から交代させられず、経営権が取れない。2010年12月に持株会社H51 SASを設け、20年間の売却禁止契約で株も囲い込んだ。2010年にLVMHが約23%まで買い進めた際も防衛し、LVMHは2014年に撤退した。

エルメスのバッグは全部が手縫いなのか?
いいえ。象徴的なサドルステッチ(couture sellier)は、二本の針と蜜蝋を引いた一本の麻糸で縫う技法だが、一つのバッグに占める割合は10%を超えない。主に強度を要する箇所や、視覚的なデザイン要素として用いられる。

エルメスはいまも鞍を作っているのか?
作っている。24 Rue du Faubourg Saint-Honoréで、いまも年に400〜500台の鞍が生産される。1909年以降のすべての鞍が番号付きで記録され、誂えの鞍は一人の職人が最初から最後まで約40時間かけて組み上げる。

マルジェラのエルメス時代はどんなものだったのか?
1997年から2003年までの6年、12コレクションに署名した。追求したのは快適さ、時を超える普遍性、手触り、抑制の効いた地味さで、彼の代名詞とされる前衛とは対極にある。「ノーロゴ」の哲学を、糸で控えめな「H」を描く六つ穴のボタンで表現した。

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