知ってた? エルメスは元々『馬の道具屋さん』だったって話

エルメス(Hermès)といえば鞄。バーキン(Birkin)にケリー(Kelly)。ところが最初の商品は鞄ですらなかった。1837年、パリで生まれたこのメゾンは、馬の鞍(くら)を作る工房として始まっている。バッグ屋さんではなく、馬具屋さんだったのだ。
しかも面白いのは、その出自を過去として捨てなかったことにある。いまも本社の建物では、年に400から500台の鞍が手で作られている。話はそこから始めたい。
馬具工房から始まった、というただの事実
まず出発点を押さえておく。エルメスは1837年、ティエリー・エルメス(Thierry Hermès)がパリに開いた馬具工房である。
ティエリーは1801年、いまのドイツにあたるクレーフェルト(Krefeld)に生まれた。パリで作った馬具は評判を呼び、1855年と1867年のパリ万博で最高位のメダルを受けている。馬車が街の主役だった時代の、上等な鞍と馬具の店。それが原点だった。
彼は1878年、77歳で世を去る。事業は息子のシャルル=エミール(Charles-Émile Hermès)へ渡った。
そのシャルル=エミールが1880年に店を移した先が、パリのフォーブール・サントノーレ通り24番地(24 Rue du Faubourg Saint-Honoré)である。この住所は、いまもエルメスの本社だ。創業から数えれば、もう一世紀半近く同じ番地に居続けている。
引っ越さないメゾン。それ自体が、このブランドの性格を言い当てているように見える。ただ、話はそう単純でもない。
「バッグ屋さん」への転身は、馬から始まっていた
ではいつ鞄屋になったのか。答えは1900年。ただし、その最初の鞄は馬のための鞄だった。
この年に生まれたオータクロア(Haut à Courroies/HAC)は、騎手が自分の鞍を持ち運ぶために設計されている。鞄といっても、まず馬具運搬の道具だったわけだ。バッグへの入口は、馬から地続きだった。
1902年、シャルル=エミールが退き、息子のアドルフ(Adolphe)とエミール=モーリス(Émile-Maurice Hermès)が引き継ぐ。社名はエルメス・フレール(Hermès Frères=エルメス兄弟商会)に改まった。エミール=モーリスは1914年、ロシア皇帝に鞍を納めている。まだ商売の芯は、間違いなく馬具にあった。
風向きが変わる。馬具と付属品の売上が落ち込み、アドルフは引退。エミール=モーリスが1919年ごろに彼の持ち分を買い取った。馬車の時代が自動車の時代に譲られていく、ちょうどその境目である。
馬が街から消えれば、馬具屋は仕事を失う。普通なら、そこで終わっていてもおかしくない。
ところがエミールは、その自動車から次の商売を拾ってきた。

ファスナーひとつで、鞄屋は続いた
転機は、一本のファスナーだった。
エミールはカナダで、軍用車の幌に使われていたアメリカ製の「クローズ・オール」という留め具に目を留める。1922年、その仕組みの独占権を手に入れた。以後、この開閉機構はメゾンの数々の鞄に使われていく。
馬具屋が、革の技術を鞄と革小物へ広げていく助走がここにある。1925年には初のメンズ・プレタポルテ、ゴルフ用のジャケットを手がけた(革のゴルフジャケットをプリンス・オブ・ウェールズ向けに1918年に作ったのが最初、という別の記録もある)。1927年に宝飾、翌1928年には時計とサンダル。
品目は増えた。けれど、増やし方に節度がある。革を扱う手の技術という一本の軸から、外へ外へと枝を伸ばしていく。馬具で鍛えた縫いの技が、そのまま鞄の背骨になっていった。
そして1937年、あの絹のスカーフが登場する。

道具に、人の名前がつくとき
エルメスの神話には、決まった型がある。実用のために作った道具が、時を経て人の名を帯び、固有名詞に変わるという型だ。
1937年のスカーフ「乗合馬車と白い貴婦人(Jeu des omnibus et dames blanches)」は、カレ(正方形の絹スカーフ)の長い系譜の一枚目だった。手がけたのはロベール・デュマ(Robert Dumas)、エミールの娘婿である。彼はチェーンの錨をかたどったブレスレット、シェーヌ・ダンクル(Chaîne d’ancre)も生んだ。
同じロベール・デュマが1930年代にデザインした鞄がある。台形のシルエット、脇のマチ、六角形の金具のついたストラップ、そして回して留めるロック。この鞄が「ケリー」の名を得たのは1956年、女優グレース・ケリー(Grace Kelly)がそれを持つ姿を撮られてからだった。
つまり、鞄が先にあって、名前は後から来た。
1984年のバーキンも同じだ。イギリスの女優で歌手のジェーン・バーキン(Jane Birkin)に捧げて作られ、その名で呼ばれるようになった。設計が先、神話は後。エルメスの代表作は、発売時の派手な宣伝ではなく、時間の経過そのものによって伝説になっている。
急がないことが、ここでは価値を生む装置になっている。では、その「急がなさ」はどこから来たのか。

いまも本社の建物で、鞍は縫われている
出自の話に戻る。エルメスは馬具屋であることを、記念碑ではなく現役の仕事として残した。
フォーブール・サントノーレ24番地では、いまも年に400から500台の鞍が作られている。1909年以降に作られた鞍はすべて番号で記録され、台帳に残る。障害飛越用の鞍「フォーブール(Faubourg)」は、世界ランキング2位の騎手ジェローム・ゲリー(Jérôme Guéry)と共同開発され、価格は1万1000ドル。
注文を受けて作るビスポークの鞍では、Equiscan®という道具で馬の背中を100か所も測る。馬に合わせて作るのだから、当然そうなる。そして一台の鞍を、一人の職人が最初から最後まで組み上げる。かかる時間はおよそ40時間。
この「一人で、最後まで、40時間」という論理こそ、エルメスが近代に対して差し出した答えだ。工程を細かく割って、速く、たくさん作る——工業のやり方の逆をいく。速度と規模ではなく、遅さと一貫性を価値に据えた。
鞍の縫いにはクチュール・セリエ(couture sellier)という技法が使われる。二本の針と、蜜蝋を引いた一本の麻糸を往復させて縫う。丈夫で、見た目も美しい。
面白いのは、この鞍縫いが鞄の全体には使われないことだ。エルメスの鞄で鞍縫いが使われるのは、多くて全体の一割ほど。強度が要る部分と、見せるための意匠として。馬具の技法は、鞄のなかで象徴のように点在している。ルーツは、消えずに埋め込まれている。
「変わらない」を売る店が、時代の勝者になった逆説
ここまでを「手仕事だから尊い」という話に読まれると、それは違う。エルメスの興味深さは、その職人主義が近代資本主義の頂点と同居している点にある。
数字を並べる。エルメスは世界で2万5000人以上を雇い、うち7000人が職人だ。製品の55%は自社工房で作られ、75%はフランス製。2024年の売上は152億ユーロ、純利益46億ユーロ、営業利益率は40.5%に達した。2025年4月には時価総額が2430億ユーロを超えている。
遅さを守る店が、これほど儲かる。矛盾しているようで、していない。手仕事の遅さを希少資源として制度化し、その希少性が価格と神話を支えているからだ。
もっとも、その希少性には別の顔もある。バーキンはクロコダイルやリザード、オーストリッチの皮を使い、価格は10万ドルを超えることもある。反ロゴ・反誇示を掲げてきたメゾンの鞄が、いまや最も雄弁なステータスの記号になった。使い捨てへの抵抗と持続可能性を語りながら、希少性そのものが投機と誇示を呼ぶ。この逆説を、エルメスは抱えたまま歩いている。
所有をめぐる攻防もあった。2010年、ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)率いるLVMHがエルメス株の保有を明らかにし、やがて約23%まで買い進めた。家族はこれを、持ち株会社H51と20年間の株式凍結(ロックアップ)で退ける。デュマ、ゲラン、ピュエシュの三家系が資本の約66.7%、議決権の76%超を握り、独立を守り抜いた。上場企業でありながら、家族が支配する。市場の資本を使いながら、市場に呑まれない。
外の才能を招き入れては、自分の寡黙な文法に吸収してきたのも同じ話だ。マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)は1997年から6年、ロゴを掲げない哲学のまま、糸で控えめに「H」を描く六つ穴ボタンを作った。ジャン・ポール・ゴルチエ(Jean Paul Gaultier)、クリストフ・ルメール(Christophe Lemaire)、ナデージュ・ヴァネー=シビュルスキー(Nadège Vanhee-Cybulski)と続き、メンズではヴェロニク・ニシャニアン(Véronique Nichanian)が38年を務めあげた。個人の長い時間が、様式になる。急がないメゾンにふさわしい人選の仕方だった。
結び:番地は動かず、道具は名を得る
だから最初の問いに戻ろう。エルメスはバッグ屋さんか、馬具屋さんか。
正しくは、いまも馬具屋さんであり続けているバッグ屋さんだ。1880年から動かない番地で、年に数百台の鞍が一人の手で40時間かけて縫われている。その同じ縫いが、バーキンやケリーのなかに一割だけ生きている。
馬車が消えても店をたたまなかったのは、馬具そのものより、革を扱う手の記憶を財産と見たからだった。道具として設計されたものが、時を経て人の名を帯びる——グレース・ケリーの名も、ジェーン・バーキンの名も、そうやって後から鞄に宿った。
次にあの鞄を見かけたら、思い出してほしい。あれはもともと、馬の鞍を運ぶための道具から地続きに生まれた、馬具屋さんの仕事なのだ。
FAQ
エルメスは本当に最初は馬具屋だったの?
そのとおり。1837年にティエリー・エルメスがパリで開いた馬具工房が始まりで、鞍や馬具を作っていた。初のメダル獲得も、1855年と1867年のパリ万博での馬具の評価による。
なぜ鞄を作るようになったの?
きっかけは1900年のオータクロア(HAC)で、これは騎手が鞍を運ぶための鞄だった。馬車から自動車へと時代が移り馬具の需要が落ちるなか、1922年に手に入れたファスナーの独占権なども追い風に、革の技術を鞄や革小物へ広げていった。
いまも鞍は作っているの?
作っている。パリ・フォーブール・サントノーレ24番地の本社で、年に400〜500台。一人の職人が一台を最初から最後まで、約40時間かけて仕上げる。馬に合わせて背中を100か所測るビスポークの鞍もあり、1909年以降の全鞍が番号で記録されている。
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