【Jil Sander|ラフ・シモンズ期】創業者が二度去ったメゾンを、純化からクチュールへ押し上げた7年
2012年の冬、ラフ・シモンズ(Raf Simons)がジル・サンダー(Jil Sander)のために最後に送り出したのは、甘いピンクのダブルフェイスのコートだった。
削ることを信条とするメゾンで、彼は服に量感と感情を戻した。
これが、この7年の答えである。
創業者の方法論——余計を削ぎ、構造だけを残す——を彼は一度も壊していない。
変えたのは温度だけだ。
純化の論理を保ったまま、どこまで服に柔らかさを許せるか。
シモンズ期とは、その一点をめぐる実験だった。
メンズ出身の男に、なぜ全コレクションを託したのか
人選そのものが賭けだった。
2005年7月、ジル・サンダーの新しいクリエイティブ・ディレクターに就いたラフ・シモンズは、メンズウェアの人である。
彼のキャリアは、痩せた少年のシルエットと音楽文化、張りつめた反抗の美学で知られていた。
女性服の経験は乏しい。
そのシモンズに、メンズもウィメンズも含む全コレクションが委ねられた。
当然の反問がある。
では、女性服を知る誰かを選べばよかったのではないか。
そうしたかったはずだ。
だが、このメゾンが探していたのは、婦人服の巧者ではなかった。
削減という思想を、自分の言葉として語り直せる人間だった。
ジル・サンダー本人が築いたのは、装飾を排し、構造の整合性だけを露わにする設計である。
バウハウス(Bauhaus)の機能主義をモードに翻訳した、建築的な明快さ。
それを継げるかどうかは、性別でも畑でもなく、思想の相性で決まる。
シモンズの持ち味は、まさに引き算にあった。
無駄を嫌い、線を信じる。
その点で、彼は最初から「削ぎ落としの女王(Queen of Less)」の後継者たりえたのである。
彼が引き継いだのは、二度築かれた削減だった
就任の背景を見れば、この継承がどれほど危うい場所で起きたかがわかる。
1999年、プラダ・グループ(Prada Group)がジル・サンダーの株式の75%を取得した。
その翌年、創業者はプラダのCEOパトリツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli)との対立から、自らの名を冠したメゾンを去る。
2003年に一度戻り、2004年11月に再び去った。
二度の離脱である。
つまりシモンズが引き継いだのは、創業者が二度組み立て、二度手放した削減の方法論だった。
方法だけがそこに残り、作った本人はいない。
資本もまた、落ち着かなかった。
2006年、チェンジ・キャピタル・パートナーズ(Change Capital Partners)がプラダからメゾンを買い取る。
2008年9月には日本のオンワード樫山(Onward Holdings)が取得した。
彼の在任7年は、オーナーが目まぐるしく替わる時期と丸ごと重なっている。
「妥協しない」ことを掲げる思想体が、妥協を強いる企業構造のただ中で生き延びる。
この皮肉の上に、シモンズの仕事は立っていた。
設計図だけがあって、建築家は不在。
資本は流動する。
その条件で、彼は何を足したのか。
温度を変える、という選択
彼が変えたのは、構造ではなく温度だった。
これがこの7年の核心である。
創業者のジル・サンダーは、感情より構造を、饒舌より沈黙を信じた。
モノクロームか、ごく狭い色域。
カシミア、ウール、シルク。
クリーンな線とシンプルなシルエット。
品質への非妥協ゆえに「アイアン・レディ(Iron Lady)」と呼ばれた、その厳格さ。
シモンズはこの文法を捨てなかった。
線の厳しさも、素材の格も保った。
けれど、そこに色を差し、量感を与え、感情の居場所を作った。
ミニマリズムは、どこまで感情を許容できるのか。
これが彼の問いだった。
削ることと、温めること。
本来なら相反するはずの二つを、同じ一着の中で両立させられるか。
純化の論理を一歩も譲らずに、服に体温を戻せるか。
たしかに無謀な問いに見える。
しかし、彼の最終盤はこの問いに実作で答えてしまう。
最後の三シーズンで、花が開いた
シモンズのウィメンズが本当に花開いたのは、在任の末尾だったと広く語られる。
2011年秋冬、2012年春夏、そして最後の2012年秋冬。
この三つのシーズンに、彼の到達が凝縮している。
とりわけ最後のコレクションは、傑作と評された。
主役は、ふくらみを持つ甘いピンクのダブルフェイスのコートである。
ダブルフェイスは、裏地を使わず二層の生地を一枚に仕立てる技法だ。
縫い代が表に出ず、断ち切りの縁がそのまま服の輪郭になる。
装飾を足さずに成立させる構造——これ以上なく「削減」的な技法でありながら、シモンズはそこに女性的な柔らかさを込めた。
硬質な方法で、柔らかい感情を。
引き算の技術で、優しさを。
ピンクという色の選択も、沈黙を信じたメゾンの歴史から見れば踏み込みだった。
狭い色域を旨としてきた設計思想のなかで、彼は感情そのものを色として置いた。
削ることと甘さは共存しうる。
最後の一着が、その証明になっている。
この仕事を、プレタポルテがクチュールの水準へ届いた瞬間と見る向きもある。
純化の方法論が、冷たさではなく豊かさとして結実した。
もっとも、そう呼べるかどうかは断定しにくい。
クチュールとは本来、一点ものの手仕事を指す言葉だ。
ここで起きたのは、既製服の文法の中で起きた密度の上昇である。
呼び名はどうあれ、確かなことは一つ——シモンズは、冷たいと思われがちなミニマリズムに体温があることを示した。
退任は、創業者の三度目の帰還だった
そして彼は去る。
2012年2月、創業者ジル・サンダー本人が三度目の復帰を果たし、交代したのである。
この入れ替わりには、奇妙な対称がある。
二度去った創業者が三度戻り、その椅子を温めていた後継者が、最も充実した仕事を終えた直後に席を空けた。
削減の思想を継いだ男が、思想の本人に場所を返す。
後の歴史は、この交代が例外でなかったことを示している。
創業者は復帰後、2013年10月に発表された2014年春夏をもって、また去った。
続くロドルフォ・パリアルンガ(Rodolfo Paglialunga)、ルーシー&ルーク・マイヤー(Lucie and Luke Meier)夫妻、そして2025年に就いたシモーネ・ベロッティ(Simone Bellotti)へと、クリエイティブ・ディレクターは替わり続ける。
創業者が何度去っても、純粋性の方法論だけは残る。
デザイナーが替わるたびに再解釈され、独り歩きしていく。
ジル・サンダーというメゾンは、ジル・サンダーという人を超えて成立する思想になった。
その自立を、最初に実証してしまったのが、ほかならぬシモンズの7年だったのだ。
本人不在の設計図を、本人以上の温度で動かせることを、彼は証明した。
だからこそ退任は敗北に見えない。
方法論が人から独立しうることを示した者が、その方法論の本人に場を譲った——そう読むのが、たぶん一番近い。
結び
甘いピンクのコートに戻ろう。
あのコートは、削減の思想が感情を拒まないことの、たった一つの証拠だった。
シモンズは創業者の文法を一文字も書き換えず、ただ温度だけを上げた。
構造の厳しさと、服の柔らかさ。
対立すると思われていた二つが、一枚のダブルフェイスの中で和解した。
彼が去ったあと、メゾンは創業者の帰還と再度の離脱、三度の交代を経て、今はイタリアのOTBグループ(OTB Group)の傘下にある。
ドイツ的な合理主義を出自とするメゾンが「メイド・イン・イタリー」の旗の下にいる緊張は、まだ解けていない。
それでも、削ることで豊かになるという命題だけは生き延びている。
純化はどこまで感情を許すのか。
シモンズは、思っていたよりずっと遠くまで、と答えて席を立った。
FAQ
ラフ・シモンズはジル・サンダーに何年在籍したのか
2005年7月から2012年2月までの約7年である。
就任月については2005年5月とする資料もあり、記録は一致していない。
なぜメンズ出身のシモンズがウィメンズまで任されたのか
このメゾンが求めたのが婦人服の技巧ではなく、削減という設計思想を継げる人間だったからだと考えられる。
引き算を信条とするシモンズの美学は、創業者の「less is more」と最初から響き合っていた。
シモンズ退任後、メゾンは誰に引き継がれたのか
2012年2月に創業者ジル・サンダー本人が三度目の復帰で交代した。
その後はロドルフォ・パリアルンガ、ルーシー&ルーク・マイヤー夫妻を経て、2025年にシモーネ・ベロッティが就任している。