【Jil Sander|ミラン・ヴクミロヴィッチ期】創業者が去った空席を、Prada資本下で預かった2年半
名を冠した当人がいなくなったメゾンで、その名前の重さをまるごと預かる。
ミラン・ヴクミロヴィッチ(Milan Vukmirovic)がJil Sanderで担ったのは、そういう仕事だった。
結論から言えば、彼は約2年半のあいだ、創業者不在の空席を埋める役として、広告キャンペーンから店舗の佇まい、メンズ・ウィメンズのready-to-wear、アクセサリー、レザーグッズまでを統括した。
そして2003年5月、本人が戻ってきたその瞬間に席を明け渡した。
空席そのものを仕事にする、というのは奇妙な役回りである。
彼が何を託され、何を抱えたのか。
そこから見ていきたい。
空席はいつ生まれたのか——2000年1月の辞任
すべては、創業者が自らのメゾンを去ったところから始まる。
ジル・サンダー(Jil Sander)本人は、2000年1月、会長兼チーフデザイナーの座を退いた。
理由ははっきりしている。
Prada CEOのパトリツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli)との対立だ。
前年の1999年、Prada GroupがJil Sander社の株式75%を取得していた。
資本が入り、ほどなくして創業者が出ていった。
順序だけ見れば、買収と辞任はほとんど地続きである。
ただ、辞任の時期については資料が完全には揃わない。
多くが2000年1月とするなかで、取得の「一年後」と記す資料もあり、そこから逆算すれば2001年に読める。
ここでは複数の有力資料に従い、2000年1月として扱う。
削ぎ落としの女王と呼ばれた人がいなくなった。
残されたのは、彼女の名を冠したまま、彼女のいないメゾンである。
Pradaはこの空席を、すぐには有名デザイナーで埋めようとしなかった。
選ばれたのがヴクミロヴィッチだった。
「顔」と「中身」を同時に——託された統括の範囲
ヴクミロヴィッチに任されたのは、コレクションを描くことだけではなかった。
メゾンの「顔」そのものを預かることだった。
役割の輪郭ははっきり記録されている。
クリエイティブディレクターとして、彼が見たのはブランドイメージ——広告キャンペーンと店舗イメージ——と、コレクションの両方である。
コレクションの側も幅広い。
メンズとウィメンズのready-to-wear、そしてアクセサリーとレザーグッズ。
服の見え方と、服そのものと、服の外側に広がる物販までを、一人の統括に束ねた。
これは、単なるデザイナー補充ではない。
創業者が去ったあとのメゾンでは、「らしさ」をどこが保証するのかが曖昧になる。
広告の空気、店の照明、靴やバッグの質感——そうした細部の総和こそが、顧客にとっての「Jil Sanderである」という感覚をつくる。
本人がいない以上、その総和を誰かが一手に引き受けるしかない。
ヴクミロヴィッチの統括範囲の広さは、裏を返せば、埋めるべき空席の大きさそのものだった。
では、彼はその空席を、創業者の思想のとおりに埋めたのだろうか。
削減の哲学は、本人なしで続けられるのか
ここが、この2年半の核心である。
Jil Sanderというメゾンの設計思想は、ひどく特殊だった。
創業者が貫いたのは、足すことではなく削ることの美学だ。
余計な要素を排し、構造の整合性だけを露わにする。
clean lineとシンプルなシルエット、モノクロームか、ごく狭い色域。
cashmere、wool、silkといった素材を、卓越した仕立てで扱う。
『less is more』——エレガンスと機能性は対立しない、という命題。
その根にはBauhausの機能主義があった。
厄介なのは、この思想が「個人」に強く結びついていたことだ。
ジル・サンダー本人は『Queen of Less』であり、品質への非妥協ゆえに『Iron Lady』とも呼ばれた。
感情より構造を、饒舌より沈黙を信じる。
削減の哲学は、彼女の人格と分かちがたかった。
装飾を足すデザインなら、引き継ぐのはたやすい。
だが「何も足さない」という選択を、本人以外が反復し続けるのは、はるかに難しい。
足し算は技術だが、引き算は判断だからだ。
ヴクミロヴィッチは、その判断を代行する立場に立った。
彼の2年半の個別のコレクションについて、ここで断定的に語れる検証済みの事実は多くない。
わかっているのは、彼が創業者の削減思想を土台とするメゾンで、その「顔」から「中身」までを預かったという枠組みのほうだ。
思想を創作して補うことはしない。
ただ、枠組みだけでも一つのことははっきりする。
削減のミニマリズムは、創業者という個人を離れて、方法論として運用され始めた。
この時期が、その最初の試金石だった。
純粋性を掲げたメゾンが、資本の意向のなかで、本人なき純粋性を続けられるか。
空席の閉じ方——本人が戻り、席は返された
答えは、終わり方に出た。
2003年5月、ジル・サンダー本人がhead designer兼partnerとして復帰する。
ヴクミロヴィッチは、その就任と入れ替わりに退任した。
つまり彼の役割は、最初から時限的だったと読める。
就任の時期にも資料の揺れがある。
2000年11月末とする資料と、2001年とする資料が割れている。
ここでは前者を軸に置きつつ、断定はしない。
いずれにせよ、在任が2003年5月までだった点は一致している。
2000年末から2003年5月——創業者が空けた席を、本人が戻るまでの間だけ、彼が温めていた格好だ。
預かる、という言葉がこれほど正確に当てはまる任期も珍しい。
しかも、この復帰劇には後日談がある。
戻ってきたジル・サンダー本人は、2004年11月、再びベルテッリとの対立を深めて去っていく。
空席は、埋めても埋めても開き直す構造になっていた。
ヴクミロヴィッチが預かった2年半は、その反復のあいだに挟まれた、ひとつの中継ぎだったことになる。
中継ぎが残したもの
ここで、冒頭の問いに戻る。
名を冠した当人のいないメゾンで、その名前を預かるとは何だったのか。
Jil Sanderというメゾンは、このあとも資本の手を次々と渡っていく。
Change Capital Partners、Onward、そしてOTB。
創業者は三度去り、Raf Simons、Lucie and Luke Meier、Simone Bellottiへとクリエイティブディレクターは替わり続けた。
『妥協しない』ことを旨とした思想体が、妥協を強いる企業構造のなかで生き延びてきた——この皮肉は、ヴクミロヴィッチ期に始まったわけではない。
だが、本人なしで削減の美学を運用した最初の人として、彼はその皮肉の入口に立っていた。
創業者が三度去っても、ミニマリズムという設計思想は、デザイナーが替わるたびに再解釈され続けた。
純粋性の方法論が、ジル・サンダー本人を超えて独り歩きしていく。
その独り歩きが成立しうるかどうかを、一番最初に、一番地味に試したのが、2000年末からの2年半だった。
削ぎ落としの女王が空けた席を、誰かが黙って温めた。
そして本人が戻ると、何も言わずに返した。
足すより引くことの難しさを思えば、この静かな中継ぎこそ、『less is more』にもっとも似た仕事だったのかもしれない。
FAQ
ミラン・ヴクミロヴィッチはJil Sanderで具体的に何を統括したのですか?
クリエイティブディレクターとして、広告キャンペーンや店舗イメージといったブランドの「顔」と、メンズ・ウィメンズのready-to-wear、アクセサリー、レザーグッズといったコレクションの両方を統括しました。
見え方から服そのもの、物販までを一手に束ねる広い役割でした。
就任は2000年と2001年、どちらが正しいのですか?
資料が割れています。
クリエイティブディレクター就任を「2000年11月末」とするものと「2001年」とするものがあり、本記事では前者を軸に扱いました。
ただし断定はできません。
退任が2003年5月であった点は資料間で一致しています。
なぜヴクミロヴィッチは退任したのですか?
2003年5月、創業者のジル・サンダー本人がhead designer兼partnerとして復帰し、その就任と入れ替わる形で席を明け渡しました。
彼の在任は、創業者が空けた席を本人の復帰まで預かる、時限的な中継ぎだったと読めます。