セリーヌ(Celine)の最初のロゴは「赤い象」だった?子供靴の店として始まった意外な原点

いま「セリーヌ(Celine)」と聞いて思い浮かぶのは、たぶんロゴのないバッグだ。
あるいは凱旋門から生まれた「C」の連なり。
だが最初のロゴは象だった。
しかも赤い象。
子供の足を測るところから始まったメゾンの話をする。
結論を先に言えば、Celineの八十年は「誰のための贅沢か」という一つの問いを、看板の絵柄ごと描き替え続けてきた歴史だった。
象から凱旋門へ、凱旋門から反ロゴへ、そしてまた記号へ。
看板が変わるたびに、答える相手が変わっている。
1945年、パリの子供靴店から始まった
Celineは服のメゾンとして生まれていない。
1945年、セリーヌ・ヴィピアナ(Céline Vipiana)とリシャール・ヴィピアナ(Richard Vipiana)夫妻が、パリのマルト通り52番地(52 rue Malte)に開いた、子供靴のオーダーメイド店。
それがすべての出発点だ。
オーダーメイド、というところに立ち止まりたい。
既製の靴を売るのではなく、一人ひとりの子供の足に合わせて仕立てる。
身体があって、それに寄り添う物を作る。
この順序は、のちのCelineが繰り返し戻ってくる場所になる。
戦後すぐのパリである。
物資はまだ乏しかったはずだ。
それでも子供の足に合わせて靴を誂えるという商いは、ある種の余裕を前提にしている。
商いは伸びた。
1948年には、パリ市内にさらに三店舗を構えている。
子供靴の誂えという、決して派手ではない仕事から、Celineは静かに地歩を固めていった。
赤い象は、誰が描いたのか
その最初の店の顔になったのが、赤い象のロゴだった。
手がけたのはレイモン・ペイネ(Raymond Peynet)。
ペイネといえば、恋人たちを描いた甘くやわらかなイラストで知られた作家だ。
日本でも「ペイネの恋人たち」として長く親しまれてきた。
そのペイネが、子供靴店のために赤い象を描いた。
象が何を意味していたのか、確かなことは分からない。
ただ、子供に向けた店の看板として選ばれた動物だと考えれば、その狙いは想像がつく。
大きくて、穏やかで、記憶に残る。
ロゴというより、絵本の挿絵に近い温度がそこにはあった。
いまのCelineの、あの禁欲的なまでに削ぎ落とされた佇まいから、赤い象を想像するのは難しい。
だが最初の顔は、この愛嬌のある一頭だった。

女性のための靴へ、そしてレザーへ
象が服のメゾンへ姿を変えていくのは、1960年代のことだ。
Celineは子供靴から婦人靴へ、そしてプレタポルテ(既製服)へと事業を広げていく。
ここで打ち出されたのが「B.C.B.G」——ボン・シック・ボン・ジャンル(Bon Chic, Bon Genre)の美意識だった。
機能的で、日常的で、パリの上流社会が普段に着られる服。
派手さではなく、身につけるものの正しさで測る価値観である。
1966年には、レザーのハンドバッグ、ベルト、手袋へと商品を広げた。
高まる需要に応え、品質を保つために、イタリア・フィレンツェに工房を構えている。
ここで注目したいのは、Celineが最初から「レザーグッズを核にする物としての完成度」に賭けていたことだ。
子供の足に合わせて靴を誂えた出発点と、フィレンツェの革工房は、同じ一本の線でつながっている。
良い物を、身体に合わせて、正しく作る。
赤い象が愛嬌の記号なら、B.C.B.Gは規律の記号だった。
看板の温度は、このあたりで一度冷えている。

1973年、凱旋門が象を消した
そして1973年、赤い象は姿を消す。
代わって現れたのが「Blazon Chaine(ブレゾン・シェーヌ)」——絡み合う二つのCを組んだ紋章だ。
着想源はパリの凱旋門(Arc de Triomphe)。
これがCelineにとって最初の「C」の署名となり、のちに「Sulky(サルキー)」と呼ばれるキャンバス地の柄になっていく。
象から凱旋門へ。
この置き換えは、単なるデザイン刷新ではない。
子供のための愛らしい動物から、パリの記念碑へ。
看板が指し示す相手が、子供から、パリという都市そのものと、その品位を身につける大人の女性へと移っている。
ペイネの手描きの温もりは、幾何学的に組まれた紋章に取って代わられた。
Celineはこのとき、絵本の店であることをやめ、パリのメゾンになった。
一つの疑問が残る。
象を捨ててまで手に入れた「C」の紋章は、そのまま栄光の道を歩んだのだろうか。

Cは、消されるためにもう一度描かれた
答えは、意外な形でやってくる。
栄光の紋章として生まれた「C」は、四十年以上のちに、一度ほとんど消されるのだ。
1987年にベルナール・アルノー(Bernard Arnault)がCelineの資本の一部を取得し、1996年、Celineは27億フラン(約5億4000万ドル)でLVMHグループに正式に組み込まれる。
ここから、看板を描き替える人物が次々と交代していく。
流れを追ってみる。
- ミカエル・コース(Michael Kors):1997年から2004年。アメリカ的なグラマーを持ち込み、Celineをより分かりやすく、より欲しくなるブランドへと近代化した。2002年の「Boogie-bag」、2003年の「Paris-Macadam」はこの時期のものだ。
- フィービー・ファイロ(Phoebe Philo):2008年から2017年。ミニマルで建築的な美学を導入し、「静かな贅沢(quiet luxury)」の思想を打ち立てた。
- エディ・スリマン(Hedi Slimane):2018年2月から2024年10月。
コースはアメリカの華やぎでCelineを世界に届けた。
それはそれで一つの答えだった。
だが、Celineが「Celineという思想」になったのは、ファイロの十年においてだ。
ファイロは装飾を削り、ロゴを引っ込めた。
2010年の「Luggage Tote」、翌2011年の「Classic Box」、「Trapeze」——どれも大きなロゴを持たない。
2011年秋冬は自動車の車内と運転という行為から発想され、2016年春夏はレースの透け感と構築的なコートを組み合わせた。
主張しないことが、最高の主張になる。
この逆説をファイロは物として証明した。
凱旋門から来た「C」は、このとき看板の前面から静かに退いていた。
女性が着るのは、他者の視線のためか、それとも自分自身のためか。
ファイロの答えははっきりしていた。
自分のためだ、と。
アクセントを外した男
だが、静かさは売り物にできるのか。
ここに、Celineの最大の矛盾が露呈する。
2018年、エディ・スリマンが着任すると、彼はまず「Céline」からアクセント記号を外した。
「Celine」へ。
デビューコレクションに先立って、新しいロゴを発表する。
1973年の「C」は「Triomphe(トリオンフ)」として再解釈され、今度は堂々と前面に出た。
ファイロが引っ込めたロゴを、スリマンはもう一度引っ張り出した。
反ロゴのミニマリズムが積み上げた信頼を、ロックとブルジョワの記号性へと転換したのだ。
2019年春夏のデビューは、激しい批判にさらされた。
ファイロの静けさを愛した層にとって、スリマンの転換は裏切りに見えたのだろう。
しかし同年秋冬で彼は「ブルジョワなフレンチガール」の路線へ舵を切り、以降は数字で応えていく。
- 2022年春夏「Baie Des Anges」:ニースのプロムナード・デ・ザングレやネグレスコで撮影。
- 2023年秋冬「Age of Indieness」:ロサンゼルスのウィルターン・シアターで発表。
- 2024年春夏「Tomboy」:パリのリシュリュー国立図書館でのランウェイ映像として発表。
そして数字だ。
2018年1月に約10億ユーロだった売上を、LVMHは五年で20〜30億ユーロに引き上げることを目標に掲げた。
2023年、その売上は推定約26億ユーロ(HSBCおよびBusiness of Fashion)に達し、CelineはLVMHで三番目に大きいブランドになった。
「静かな贅沢」で築いた信頼を、記号の誇示で現金化する。
控えめさを売り物にすることの矛盾が、ここで剥き出しになった。
皮肉なことに、賛否が最も割れたスリマンの時代に、Celineは最も大きくなった。
十年の伴走者が帰ってくる
いま看板を描き替える役目は、また別の人物に移りつつある。
2024年10月にスリマンが去り、後任にはマイケル・ライダー(Michael Rider)が指名された。
役割は2025年初頭から。
彼は着任前、ポロ・ラルフ・ローレン(Polo Ralph Lauren)のクリエイティブ・ディレクターを務めていた。
だが、Celineにとってライダーは外から来た人ではない。
ライダーはかつて十年間、Celineのデザイン・ディレクターだった。
その十年はファイロの在任期とほぼ重なる。
「静かな贅沢」を現場で支えた一人が、いまトップとして戻ってくる。
キャリアの出発点も見ておきたい。
彼はバレンシアガ(Balenciaga)で、2004年から2008年までニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)のもとシニアデザイナーを務めた。
構築性で知られる場所から出発し、ファイロの禁欲を十年支え、ラルフ・ローレンのアメリカ的古典を経て、Celineに帰る。
象、凱旋門、反ロゴ、記号——四つの看板を経て、Celineはまた新しい顔を選ぼうとしている。
それがどんな顔になるのか、最初のコレクションが「2025年初頭」なのか「2026年春夏」なのかも含め、まだ像を結んでいない。
誰のための、どんな贅沢か
八十年前、パリのマルト通りで、一頭の赤い象が子供靴の店を見守っていた。
ペイネの描いた、愛嬌のある象だった。
その象が凱旋門になり、凱旋門が消され、消された記号がもう一度前面に出て、いままた描き替えられようとしている。
看板が変わるたびに、Celineは同じ問いに戻ってくる。
この贅沢は、誰のためのものなのか。
子供のためか、パリの品位のためか、着る女性自身のためか、それとも見せびらかすためか。
答えは一度も固定されなかった。
だからこそCelineは、後継者が代わるたびに看板を描き直せた。
子供の足を測るところから始まったメゾンは、いまも誰かの身体と、その身体が世界にどう見られたいかとの間で、線を引き直し続けている。
赤い象は、その最初の一頭だった。
FAQ
Celineの最初のロゴは本当に赤い象だったのですか?
はい。
1945年の創業時、Celineの最初のロゴは赤い象で、イラストレーターのレイモン・ペイネ(Raymond Peynet)が手がけました。
恋人たちの絵で知られる作家です。
1973年に凱旋門から着想した「C」の紋章「Blazon Chaine」へと置き換えられました。
なぜ子供靴の店として始まったのですか?
1945年、セリーヌ・ヴィピアナ(Céline Vipiana)とリシャール・ヴィピアナ(Richard Vipiana)夫妻が、パリのマルト通り52番地で子供靴のオーダーメイド店として創業したためです。
1960年代に婦人靴とプレタポルテへ、1966年にはハンドバッグなどのレザーグッズへと事業を広げました。
「Céline」から「Celine」にアクセントが消えたのはいつですか?
2018年、エディ・スリマン(Hedi Slimane)が着任した際です。
デビューコレクションに先立ち、アクセント記号を外した「Celine」の新ロゴを発表しました。
フィービー・ファイロ(Phoebe Philo)時代の反ロゴ的なミニマリズムから、記号性を前面に出す路線への転換を象徴する変更でした。



