【アレキサンダー・マックイーン|サラ・バートン期】創業者の死から王室の花嫁まで——13年かけてメゾンを存続可能にした女性
2010年2月、創業者が自ら生を絶った。
未完のコレクションと、彼の名を冠したメゾンだけが残った。
この引き継ぎを託されたのが、サラ・バートン(Sarah Burton)である。
結論を先に言う。
彼女の13年は、創業者の「個人の狂気」を、他人が着られ、売れ、受け継げる「様式」へと翻訳し直した時間だった。
そしてその翻訳の成否を測る最も鋭い指標が、本来なら最も縁遠かったはずの相手——英国王室の花嫁衣装だった。
遺されたのは、未完のコレクションと名前だけだった
バートンが受け取ったのは、終わっていない仕事だった。
リー・アレキサンダー・マックイーン(Lee Alexander McQueen)は1969年3月17日にロンドンで生まれ、2010年2月、40歳で世を去った(11日とも、前日の10日とも伝わる)。
彼がこのロンドンのレーベルに遺したコレクションは全部で36。
その最後、第36の「Angels and Demons」(2010年秋冬)は、死の時点で未完のまま残された。
残された側に選択肢は多くなかった。
メゾンの名前は創業者その人の名前である。
その人がいない。
バートンは外から呼ばれた救世主ではない。
1996年にインターンとして入り、2000年から婦人服部門を率いていた、内側の人間だった。
つまり彼女は、創業者が「No.13」でロボットにシャローム・ハーロウ(Shalom Harlow)へスプレーを吹きつけさせた1999年春夏の現場も、鏡張りの立方体にミシェル・オリー(Michelle Olley)を封じ込めた「Voss」(2001年春夏、発表は2000年9月26日)の裏側も、同じ建物の中で見ていた。
この距離感が、後のすべてを決めることになる。
外から来た者なら、遺産を自分の作風で上書きしただろう。
彼女はそれをしなかった。
継いだのは演出ではなく、併置の原理だった
では、彼女は何を継ぎ、何を手放したのか。
マックイーンのランウェイは劇場であり、儀式だった。
「Dante」(1996年秋冬)はスピタルフィールズの教会堂で、ダンテの『神曲』を下敷きに演じられた。
「Plato’s Atlantis」(2010年春夏)は史上初のライブ配信ショーとして、レディー・ガガ(Lady Gaga)の「Bad Romance」を世界に解き放ち、あのアルマジロ・シューズを歩かせた。
バートンは、この種の衝撃装置そのものを継がなかった。
ロボットも、鏡の立方体も、彼女のショーには戻ってこない。
では何を継いだのか。
メゾンのDNAとして繰り返し語られてきた、ひとつの原理である。
強さと脆さ、光と闇、革新と伝統——相反するものを同じ一着の上に並べて置くこと。
マックイーンの服は、サヴィル・ロウ(アンダーソン&シェパード、ギーヴス&ホークス)で仕込んだ仕立ての厳密さを持ちながら、それを儀式のように壊してみせた。
この「併置」こそが核だった。
バートンが手放したのは演出の暴力性で、守ったのは構造の緊張だったと言っていい。
鎧のような肩と、崩れ落ちそうなドレープ。
硬いテーラリングと、生き物のように有機的な刺繍。
衝撃を観客の目に叩きつける代わりに、彼女はそれを衣服そのものの内部へ畳み込んだ。
劇場で起きていた衝突を、彼女は布地の上へ移した。
ただ、それで「反逆のメゾン」であり続けられるのかは、まだ分からない。
王室の花嫁という、最も遠い相手
その問いに、ほとんど残酷なほど明快な答えを出したのが2011年だった。
バートンはケイト・ミドルトン(Kate Middleton)のウェディングドレスを手がけた。
英国王室の、世界が見る結婚式の、花嫁衣装である。
ここで一度立ち止まりたい。
マックイーンというメゾンが敵としてきたものを思い出す必要がある。
彼が「Horn of Plenty」(2009年秋冬)で風刺したのは、浪費と独創性の欠如に陥ったファッション産業そのものだった。
そしてもうひとつ、英国の階級社会に根ざした「上品さ」の規範——これもまた、彼のテーラリングが挑発し続けた相手だった。
1995年3月13日に発表された「Highland Rape」は、そのタイトルと演出をめぐって今なお論争を残している。
スコットランドのタータン、破壊的な仕立て、腰を危うく露出させる「バムスター」。
上品さへの正面からの攻撃だった。
その反逆のメゾンが、王室の花嫁を仕立てた。
矛盾と読むこともできる。
産業と階級の規範を敵としてきた者が、その頂点の儀式に奉仕したのだから。
だが、別の読み方もできる。
あのドレスが「上品さ」の規範に素直に従っていたかというと、そうではない。
レースの繊細さと、仕立ての構築性。
脆さと強さ。
それは紛れもなく、あの併置の原理の上に立っていた。
バートンは王室という最も保守的な舞台の上で、メゾンの核を密輸したのだとも言える。
どちらが正しいのかは、たぶん両方正しい。
産業を風刺した者が産業の中核資産になる矛盾——マックイーンはすでに2001年にケリング(Kering)傘下に入っていた(2000年とする記録もある)——は、このメゾンに最初から埋め込まれていた。
バートンはその矛盾を解消したのではない。
着られる形で引き受けた。
「継承可能」であることの、静かな代償
彼女がしたのは、狂気を様式に変えることだった。
創業者が四度の英国デザイナー・オブ・ザ・イヤー(1996〜2003年)を獲り、CBEを受けた軌跡は、一人の才能の爆発の記録である。
その爆発は、定義上、継承できない。
他人が真似れば、それはもう爆発ではなく模倣だ。
バートンがやったのは、爆発の「様式」を抽出する作業だった。
鎧の肩、有機的な刺繍、硬と軟の対置——これらは次の作り手が学び、変奏できる語彙である。
狂気は継げないが、文法は継げる。
その証拠に、メゾンは存続した。
北京出店(2011年10月31日に初のランウェイ付きで開店)、オンライン展開、プーマ(2006年)やサムソナイト(2007年)との協業。
商業システムの中核資産として、マックイーンは機能し続けた。
これはバートンの翻訳が成功したことの、商業的な裏書きだと言っていい。
ただ、翻訳には必ず失われるものがある。
創業者のショーが観客を「揺さぶり傷つける」ものだったとすれば、バートン期のそれは観客を畏れさせ、見惚れさせるものへと変わった。
暴力は美しさに昇華された。
昇華とは、角が取れることでもある。
モードの惰性そのものを敵に回していたあの刃が、着られる衣服の美点へと研ぎ直されたとき、刃であり続けたのかどうか——ここに、答えの出しきれない問いが残る。
沈黙のまま閉じた13年
バートン期の終わりは、2023年9月30日のパリ、2024年春夏コレクションだった。
その退任について、親会社ケリングは公式な理由を明らかにしていない。
13年の指揮の幕引きに、説明はなかった。
この沈黙を、業績とも、路線をめぐる対立とも、世代交代とも読むことはできる。
だが根拠はない。
ここでは事実としてだけ置いておく——理由は、公表されていない。
後任はアイルランド出身のショーン・マッギア(Seán McGirr)。
ダブリンに生まれ、2014年にセントラル・セント・マーチンズで修士号を取り、JW アンダーソン、ドリス・ヴァン・ノッテン、東京とパリのユニクロのクリエイティブ部門を経てきた人物である。
デビューは2024年秋冬、3月2日のパリだった。
奇しくも、創業者がセント・マーチンズを出た経歴と重なる。
そして、継承はまた一段、変質する。
存続可能にする、ということ
冒頭に戻る。
2010年2月、残されたのは未完のコレクションと、一人の人間の名前だけだった。
名前は、その人がいなくなった瞬間から、重すぎる遺産になる。
バートンの13年がやったのは、その名前を「生きられるもの」に変えることだった。
狂気を文法に、衝撃を併置に、劇場を衣服に翻訳して。
王室の花嫁という最も遠い相手に、メゾンの核をそっと忍び込ませて。
それを存続と呼ぶか、鎮静と呼ぶかは、見る者による。
繊細さと暴力性を同じ身体に宿していた挑発者の刃は、着られる美しさへと研がれた。
失われたものはある。
だが、失わなければ、名前そのものが消えていた。
反逆のメゾンが王室の花嫁を仕立てた、あの一着を思い出す。
脆さと強さが、一枚のレースの上で握手していた。
それが、創業者の死から花嫁まで、彼女が13年かけて差し出した答えだった。
FAQ
サラ・バートンはマックイーンの死後に外部から招かれたのですか?
いいえ。
1996年にインターンとして入り、2000年から婦人服部門を率いていた、メゾン内部の人間です。
創業者の主要なショーを現場で見てきた立場から、2010年にクリエイティブ・ディレクターへ就きました。
なぜ「反逆のメゾン」が王室の花嫁衣装を手がけられたのですか?
2011年のケイト・ミドルトンのドレスは、マックイーンのDNAである「強さと脆さの併置」を、王室という保守的な舞台の上で成立させた仕事でした。
上品さの規範に従ったというより、その核を最も遠い相手の中へ持ち込んだ、と読むこともできます。
バートンが退任した理由は公表されていますか?
いいえ。
2023年9月30日のパリ、2024年春冬コレクションが最後となりましたが、親会社ケリングは公式な理由を明らかにしていません。
後任はショーン・マッギアで、デビューは2024年秋冬でした。