知ってた?シャネルの「黒いワンピース」、100年前まで黒は“お葬式の色”だった

1926年以前、黒が喪の色でしかなかった時代の身体観を理解させ、そこにChanelの簡素な黒ドレスが投じられた違和感を象徴する
まず、黒は死者のための色だった

黒いワンピースを一着も持っていない女性は、たぶん少ない。だからこそ、ここで確かめておきたい事実がひとつある。その黒が「おしゃれ」になったのは、たかだか100年ほど前のことだ。ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)が1926年に発表するまで、黒はほとんど喪の色でしかなかった。喪服から普段着へ——この反転が、なぜたった一枚のドレスで起きたのか。

まず、黒は死者のための色だった

19世紀、黒い服を着るには理由が要った。誰かを弔うか、あるいは弔いの真似をするか。婦人が黒をまとうのは、夫や親を亡くしたしるしだった。喪が明ければ、色が戻ってくる。それが順序というものだった。

だから1926年に発表された黒一色のワンピースは、当時の目には奇妙に映ったはずだ。誰も死んでいないのに、なぜ黒なのか。

シャネルはその問いに、飾りで答えなかった。むしろ削ぎ落とすことで答えた。膝下丈、ほぼ無装飾、直線的なシルエット。喪服の暗さを、都会の簡素さに置き換えてしまったのである。

Vogueは、これを「フォード」と呼んだ

アメリカ版Vogueは、この黒いドレスを「シャネルのフォード(Chanel’s Ford)」と評した。奇妙な比喩に見える。だが、狙いは正確だった。

フォードとは、あのT型フォードのことだ。誰もが手に入れられ、どこへでも乗っていける、規格化された黒い車。Vogueはドレスを車になぞらえることで、二つのことを一度に言い当てた。どんな場面にも合う汎用性と、階級を問わない普及力である。

つまり黒いドレスは、着る者を選ばない服だった。

ここが肝心なところだ。オートクチュールは本来、一点物の贅沢を売る世界である。にもかかわらずVogueは、量産車の名でクチュールのドレスを褒めた。褒め言葉として成立していたのだろうか。

成立していた。なぜなら、そこにこそシャネルの新しさがあったからだ。

一点物の贅沢を売るクチュールが、量産車の名で褒められた逆説を理解させ、着る者を選ばない汎用性という新しさを象徴する

削ることが、贅沢になった

過剰を美とする時代に、彼女は無駄を削ることを美と言い張った。これは思いつきではない。出自から来ている。

シャネルは救貧院同然の場所で生まれ、母を早くに亡くし、父に捨てられた。姉妹とともに送られたのは、Aubazineというカトリック修道院の孤児院だった。ここで6年を過ごし、修道女から裁縫と刺繍を教わったと広く語られる。

厳格で、簡素で、無駄のない環境。後年の「簡素・機能・端正な線」という美学の源泉を、この修道院に見る人は多い。贅を知る前に、彼女は欠乏を知っていた。

だとすれば、彼女がやったのは色の反転だけではない。素材の身分も、片っ端から書き換えていった。

  • ジャージー:もとは男性の下着に使われた生地。1913年から、これでスポーツウェアを仕立てた。頭からかぶるだけのセーターは、レースやボタンを結ぶ手間から女性を解き放った。
  • ツイード:贅沢とは見なされなかった生地。これでスーツを組み、男性的な素材に女性的な仕立てを重ねた。
  • パンツ:男の服だったものを、女性のワードローブへ持ち込んだ。

一つずつ着地させておこう。ジャージーは下着から一張羅へ、ツイードは非高級品から高級服の代名詞へ、パンツは性別の境界を越えて。そして黒は、喪服から都会の制服へ。どれも「その素材や色にふさわしい身分」という秩序を、内側から崩す仕事だった。

コルセットからの解放も、同じ思想の延長にある。締めつけて飾り立てることを美とした19世紀のモード観に対し、動きやすさそのものが優雅ではないか、と彼女は問うた。

欠乏の出自から生まれた「削ぎ落とす美学」と、ジャージー・ツイード・パンツという素材の身分の反転を理解させる

反転は、ひとりの意志だった

黒いドレスの前年までに、土台はすでに出来ていた。1921年、香水No.5。当時主流だった単一花の香りに対し、80種以上を配合した。ボトルも、装飾を排した簡素な四角にした。1920年代からはツイードのスーツ、そして交差する二つのCのモノグラム。

黒いドレスは、突然変異ではない。削ぎ落とすという一貫した意志が、色にまで及んだ結果である。

彼女はまた、自分自身の物語も編集していた。31 rue Cambon——1918年に構えたこの場所は、今もメゾンの本拠であり続けている。出自も美学も、強い意志で削り、整え、語り直す。その自己編集の力が、そのまま服の造形になった。

N°5、ツイードスーツ、二つのCのモノグラム、31 rue Cambonへの執着に貫かれた「削ぎ落とす一貫した意志」と自己神話化を理解させる

解放を語った者が、自由を奪う側に立った

ここで、一枚の黒いドレスの明るい話を、そのまま閉じるわけにはいかない。

女性を束縛から解き放つと掲げた当のシャネル自身が、第二次大戦下のフランスで占領者と結びついた。機密解除された文書は、彼女がNazi諜報機関Sicherheitsdienstに協力していたことを示している。戦後、ドイツの外交官にして諜報員だった人物との関係を尋問されたが、友人だったウィンストン・チャーチルの介入もあり、訴追は免れたと伝えられる。

自由の象徴が、他者の自由を奪う権力に加担した。この亀裂は、黒いドレスの軽やかさとは別の重さで残る。

矛盾はもうひとつある。「独立した女性」の神話を体現しながら、香水事業の資本はWertheimer家に委ねられ、メゾンは今もこの一族が所有している。独立は、他者の資本の上に立っていた。

制服になった、という結末

戦後、彼女は71歳でパリに戻り、1954年に再起する。だが当初、バイヤーもジャーナリストも冷ややかで、コレクションの発表は石のような沈黙のなかで進んだ。

流れを変えたのは、Elle誌の編集者Hélène Gordon-Lazareffだったと言われる。彼女は、シャネルのスーツが現代の女性のための服になりうると見抜いた。襟のないジャケットとスカートのツイードのセット——動きやすさを核にしたChanel Suit。続く1955年には両手を自由にするための2.55、1957年には脚を長く見せるバイカラーのパンプス。

どれも共通しているのは、飾りより先に、動くことを考えている点だ。

冒頭の一枚に戻ろう。あなたのクローゼットにある黒いワンピースは、喪の色を都会の色へ反転させた100年前の一着の子孫である。それは働き、動く女性のための、事実上の制服になった。着る者を選ばない黒——Vogueがフォードと呼んだあの汎用性は、いまも生きている。

軽やかな反転の物語と、その裏に残る消えない責任。この二つを同時に抱えたまま、黒はいまも喪服の顔には戻っていない。

FAQ

リトル・ブラック・ドレスはいつ発表された?

1926年、ガブリエル・シャネルが発表した。それ以前、黒はおもに喪の色とされており、彼女はこれを現代的で優雅なモードの色へと再定義した。

なぜVogueは「シャネルのフォード」と呼んだのか?

どんな場面にも合わせられる汎用性と、幅広い層に受け入れられる普及力を、量産車T型フォードになぞらえた評価である。一点物の贅沢を売るクチュールの世界で、これは新しさを言い当てる褒め言葉だった。

シャネルの美学はどこから来たのか?

Aubazineの修道院の孤児院で過ごした環境に源泉を見る説が広く語られる。厳格で簡素な暮らしのなかで裁縫を学び、それが「簡素・機能・端正な線」という思想につながったとされる。ただし起源の物語である以上、断定はできない。