【Gucci|Frida Giannini期】2006年から2015年まで、官能の後始末をアーカイブ回帰で担った女性ディレクター

彼女の仕事を、ひとことで言うなら「後始末」だった。
トム・フォード(Tom Ford)が去ったあと、官能に振り切ったメゾンをどう着地させるか——フリーダ・ジャンニーニ(Frida Giannini)の9年は、その問いへの長い答えだったといっていい。
そして彼女が選んだ答えは、未来ではなく過去、すなわちグッチ(Gucci)自身のアーカイブだった。
ここで先に言い切っておく。
ジャンニーニ期とは、あるひとつの成功したバッグの論理を、メゾン全体へ引き延ばした時代である。
そのバッグの名を「フローラ(Flora)」という。
ハンドバッグの担当者が、なぜメゾン全体を任されたのか
順序が、この人事のすべてを語っている。
ジャンニーニがグッチに入ったのは2002年。
肩書きはハンドバッグのデザインディレクターだった。
クリエイティブ・ディレクターではない。
服でもない。
バッグである。
この事実は軽く見られがちだ。
だがグッチというメゾンの成り立ちを思えば、むしろ核心に近い。
創業者グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)が1921年にフィレンツェで開いたのは、旅行鞄と乗馬用品を扱う小さな皮革の店だった。
竹のハンドル、GGのキャンバス、緑赤緑のウェブ——このメゾンを世界へ押し上げた記号は、どれも服ではなく革物と付属品から生まれている。
つまりバッグの担当者とは、グッチの一番古い記憶を預かる役職だった。
2006年、彼女はメゾン全体のクリエイティブ・ディレクターに就く。
異例に見える昇格である。
ただ、こう並べ替えると景色が変わる。
アーカイブを最もよく知る者が、アーカイブへ回帰しようとするメゾンのトップに立った、と。
これで話は通る。
ように見える。
ただ、なぜ回帰しなければならなかったのか、その理由はまだ言っていない。
トム・フォードが残した熱と、その始末
たしかにトム・フォードは救世主だった。
それは疑いようがない。
1990年に女性プレタポルテのディレクターとして入り、1994年にクリエイティブ・ディレクターへ。
1995年秋冬のデビューコレクションは、それまでの保守的なグッチと決別し、現代の官能と挑発的なカッティングを持ち込んだ。
昇格からわずか一年で売上は9割伸びた。
倒れかけていたメゾンが、世界の権力へと変わった。
数字は正しい。
問題は、その熱をどう継ぐかだった。
官能は強い言語である。
だが強すぎる言語は、それを発した一人の作家に縛られる。
フォードの官能はフォードのものだった。
彼が2004年に去ったあと、同じ挑発を続ければ模倣になり、捨てれば売上の背骨を失う。
後任に残されたのは、この二択のあいだの狭い道だった。
ジャンニーニは、どちらも選ばなかった。
官能を継ぐのでも、否定するのでもなく、話題を別の場所へ移した。
メゾンの歴史そのものへ、である。

「フローラ」——過去の一枚のスカーフが、最初の勝利になった
彼女の最初の商業的成功は、まったく新しい何かではなかった。
古い一枚のスカーフだった。
下敷きになったのは、1960年代にグレース・ケリー(Grace Kelly)のためにつくられたとされる花柄のスカーフ「フローラ」。
ジャンニーニはこの図案を掘り起こし、色鮮やかなバッグのコレクションへと仕立て直した。
これが当たった。
この選択の巧みさは、二つの層にある。
ひとつは、フォードの熱との距離。
官能は肌と欲望の言語だが、フローラは記憶と気品の言語である。
グレース・ケリーという名は、あのモナコ公妃の優雅さをそのまま呼び込む。
挑発の対極にある上品さを、しかもグッチ自身のアーカイブから引き出してみせた。
もうひとつは、彼女の出自との一致。
バッグの担当者が、バッグで勝った。
服のランウェイで思想を語る前に、まず売れる革物で足場を固めた。
就任前の役職が、そのまま最初の勝ち筋になっている。
ここに、ジャンニーニ期の型が出そろっている。
過去を掘る。
それを商品へ落とす。
挑発ではなく親しみで届ける。
一枚のスカーフに見いだしたこの方法を、彼女はメゾン全体へ広げていくことになる。
アーカイブ回帰という戦略の、光と影
過去に還ることは、安全だったのか。
半分は、そうだ。
グッチのアーカイブは豊かである。
物資不足のなかで生まれたGGキャンバス、戦争末期に日本の竹をハンドルに使ったバンブーバッグ、馬具の腹帯に由来する緑赤緑のウェブ——欠乏を意匠に変えてきた記号の宝庫だ。
掘るべき鉱脈には事欠かない。
既にある資産を再解釈するのは、ゼロから記号を発明するより確実に見える。
もっとも、確実さには裏がある。
アーカイブ回帰は、定義上、驚きを大きくは生まない。
既視感と隣り合わせだからだ。
フォードが持ち込んだのが「見たことのない官能」だったのに対し、ジャンニーニが差し出したのは「見覚えのある気品」だった。
前者は熱狂を、後者は安心を呼ぶ。
どちらが優れているという話ではない。
ただ、時代の空気がどちらを求めるかは、作り手には選べない。
そして——ここは踏み込みすぎないでおくが——事実として、彼女は2015年初頭にメゾンを去っている。

退任、そしてアレッサンドロ・ミケーレへ
一人ではなかった。
ジャンニーニは、CEOのパトリツィオ・ディ・マルコ(Patrizio di Marco)とともに、2015年初頭にグッチを離れた。
クリエイティブと経営、その両輪が同時に外れたという事実だけが、ここで確かに言えることである。
回帰の戦略が限界に達したのか、経営判断が先にあったのか——その内実まで、手元の事実は語らない。
断定はしない。
はっきりしているのは、次に起きたことだ。
2015年1月、クリエイティブ・ディレクターに就いたのはアレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)。
彼もまた2002年からグッチにいた人物である。
ジャンニーニと同じ年に、同じメゾンへ。
長く内側にいた者が、また内側から立った。
だがミケーレが2015年秋冬メンズウェアで示したものは、ジャンニーニの気品とはまるで違った。
ノンコンフォーミスト、ロマンティック、知的、アンドロジナス、折衷的、マキシマリスト——男女の境界を溶かす耽美が、いきなり喝采を浴びた。
官能から気品へ、気品から耽美へ。
このメゾンは、創業者亡きあと、外部あるいは内部の才能によって周期的に顔を変え続けてきた。
アルドの拡大、フォードの官能、ジャンニーニの回帰、ミケーレの耽美。
一人の作家に留まることを、グッチは自らに許さない。
再解釈され続けることが、このメゾンの宿命なのだ。
その連鎖のなかで、ジャンニーニの9年をどう置くか。
後始末は、なぜ地味に見えるのか
冒頭で「後始末」と呼んだ。
その言葉に、いま一度戻りたい。
後始末は、始めることより評価されにくい。
フォードのデビューやミケーレのデビューは「事件」として記憶される。
転換点は劇的だからだ。
だがジャンニーニの仕事は、劇的な熱を鎮め、暴れた言語を穏やかな地点へ着地させることだった。
着地は、離陸ほど拍手を受けない。
それでも、あの一枚のスカーフを思い出してほしい。
グレース・ケリーのフローラを掘り起こした判断は、単なる懐古ではなかった。
強すぎた官能の後で、メゾンが自分の名でもう一度立つための足場だった。
過去に還ることでしか、次の跳躍のための踏み切り板は用意できなかったのかもしれない。
ミケーレの耽美が飛べたのは、その前に誰かが地面を均していたからだ、という見方もできる。
欠乏が竹のハンドルを生み、禁輸がGGキャンバスを生んだメゾンである。
制約を意匠へ変える——それがグッチの一番古い作法だとすれば、フォードが残した「継ぎにくさ」という制約を、アーカイブという意匠へ変えたジャンニーニは、案外このメゾンの作法に忠実だったのではないか。
後始末が地味に見えるのは、それがうまくいったときだけである。
FAQ
フリーダ・ジャンニーニはいつグッチに入り、いつクリエイティブ・ディレクターになったのか
2002年にハンドバッグのデザインディレクターとして入社し、2006年にメゾン全体のクリエイティブ・ディレクターへ就いた。
バッグの担当から始まった経歴が、アーカイブ回帰という彼女の方針と深く結びついている。
「フローラ」とは何か
1960年代にグレース・ケリーのためにつくられたとされる花柄のスカーフを下敷きにした、色鮮やかなバッグのコレクション。
この図案を掘り起こして商品化したことが、ジャンニーニ最初の商業的成功となった。
トム・フォードの官能路線から、メゾンの歴史資産への回帰を象徴する仕事である。

ジャンニーニの後任は誰か
アレッサンドロ・ミケーレ。
ジャンニーニは2015年初頭にCEOのパトリツィオ・ディ・マルコとともに退任し、同年1月にミケーレがクリエイティブ・ディレクターへ就いた。
ミケーレはアンドロジナスで折衷的、マキシマリストな耽美を打ち出し、ジャンニーニの気品とは対照的な方向へメゾンを導いた。



