「Yves Saint Laurent」はなぜ二つに分かれたのか——化粧品だけが旧ロゴを守る資本の理由

ひとつの名が、いま二つに割れている。
服の看板は「Saint Laurent」、化粧品の瓶には依然として「Yves Saint Laurent」。
カサンドル(Cassandre)の絡み合う三文字のモノグラムを守っているのは、服ではなく口紅のほうだ。
理由は美学ではない。
所有権である。
名とロゴの分裂は、このメゾンが誰の資産として売買されたか——その資本の移動を、そのまま文字の形に刻んだ痕跡だった。
奇妙な話ではある。
創業者イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)その人の名を捨てたのは、彼が作った服の側だった。
分裂の起点は、創業者ではなく債務にある
まず押さえておきたい。
名が割れたのは、デザイナーの気まぐれでも遺志でもなく、企業が別々の所有者に売られたからだ。
1961年、イヴ・サンローランはピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)とともに自らのオートクチュール・メゾンを興した。
アメリカの実業家J・マック・ロビンソン(J. Mack Robinson)の出資が土台にあった。
翌1962年に最初のコレクション。
ここまでは、傷ついた青年が喪失から立ち上がる物語として語られてきた。
Dior急死後に21歳で頂点へ、Trapèzeで喝采、アルジェリア戦争の徴兵、電気ショックを含む治療、そして入院中に届いたDiorからの解雇通告。
彼はDiorを契約違反で訴えて勝ち、その痛手を抱えたまま自分の名を掲げた。
創業神話としては、これで足りる。
だが、名の分裂を説明するには足りない。
1987年に会社が登記され、1989年にはファッションブランドとして初めてパリ証券取引所に上場した。
反抗の記号だったはずのメゾンが、金融商品になった最初の例である。
ここで一度、思想と資本の道が交わる。
そして分かれていく。
三度の売却が、名を少しずつ削っていった
結論から言えば、名を変えたのは所有者の交代であり、それは三度あった。
一度目は1993年。
多額の負債を抱えたGroupe Yves Saint Laurentは、Elf-Sanofiに買収される。
のちのSanofi Beautéだ。
ここで重要なのは、買い手が製薬・化粧品の資本だったことだ。
香水と化粧品を含むこのメゾンは、薬品会社の器の中でひとまとまりに扱われた。
二度目は1999年。
そのSanofiがPinault-Printemps-Redoute(PPR)に取得され、Rive GaucheとBeautéの両ラインがPPR傘下のGucci Groupへ売られる。
ここで服はトム・フォード(Tom Ford)の手に渡り、彼は2000年に最初のコレクションを見せた。
ラグジュアリー・コングロマリットの一部品として、Yves Saint Laurentは組み替えられていく。
創業者本人は、この資本の潮流の外へ静かに退いていた。
2002年1月22日、イヴ・サンローランはオートクチュールのデザイナーとして正式に引退する。
最後のコレクションはポンピドゥー・センターで、自作の回顧展とともに披露された。
同年10月31日、アヴェニュー・マルソー16番地のオートクチュールのサロンが閉じる。
手仕事の系譜は、ここで途切れた。
2008年6月1日、彼は脳腫瘍で世を去る。
71歳だった。
そして三度目の、決定的な組み替えが訪れる。

服の名を縮めたのは、Helvetica一書体だった
2012年、名を最も大きく削ったのはエディ・スリマン(Hedi Slimane)である。
断言していい。
彼はこの一手で、思想の看板を意匠に変えた。
スリマンはかつて1997年からRive Gaucheのメンズを手がけた人物で、2012年にクリエイティブ・ディレクターとして戻ってきた。
彼はプレタポルテのライン名「Yves Saint Laurent Rive Gauche」を「Saint Laurent Paris」へ改める。
同時にロゴを、ブロック体のHelveticaへ替えた。
たしかに、これは冒涜と受け取られた。
カサンドルの、フルール・ド・リス(fleur-de-lis)に着想したという優美な三文字を捨て、無名性を極めた工業書体へ。
創業者の名「Yves」そのものが看板から消えたのだから。
ただ、ここで見たいのは怒りではなく、書体の選択が何を語ったかだ。
Helveticaは特定の作家を持たない。
誰のものでもない中立の顔をした活字である。
作家の署名だったモノグラムを、匿名の資本の書体へ置き換える——スリマンの改称は、このメゾンがもはや一人の人格ではなく、機構の資産であることを、文字の形で正直に告げていた。
翌2013年、PPRはKeringへ改称し、Saint Laurent(アパレル)はKeringの子会社となる。
名は縮み、所有者の名は変わり、看板だけが残った。
もっとも、Helvetica化を「同じ書体だ、1966年にイヴが使ったものと変わらない」とする説も伝わってはいる。
真偽は割れる。
だが割れているという事実こそ、この改称がどれほど象徴の中心を突いたかを示している。

では、なぜ化粧品だけが古い名を守れたのか
ここに、この記事の核心がある。
答えは単純で、しかし残酷だ。
化粧品は、服とは別の会社に売られたからである。
2008年、創業者が没した年に、化粧品ライン「Yves Saint Laurent Beauté」はロレアル(L’Oréal)に取得された。
服がKeringの傘下でSaint Laurent Parisへと名を変えていくその横で、化粧品は化粧品の巨人の資産となった。
所有者が違えば、名を変える権限も、変える動機も、別々に生じる。
ロレアルには、名を縮める理由がなかった。
逆だった。
化粧品の世界で「Yves Saint Laurent」の五文字とカサンドルのモノグラムは、それ自体が資産価値そのものである。
1978年に始まったこのメイクアップラインにとって、絡み合う三文字は消費者が瓶を選ぶ理由だ。
ロレアルはこのモノグラム——カサンドルが手がけた、あの署名——を保持した。
名も、ロゴも、そのまま守った。
だから今、こういう事態になっている。
同じ「Yves Saint Laurent」という出自を持ちながら、服はKeringが持ちHelveticaを名乗り、化粧品はロレアルが持ちカサンドルを守る。
ひとつの思想の身体が、二人の別々の親会社によって、別々の名で運営されている。
名は人格に宿るのではない。
所有権に宿る。
それが、この分裂が教えることだ。

解放の記号が、二つの資本に分割された
ここで一度、創業の思想へ戻りたい。
イヴ・サンローランが敵と定めたものは何だったか。
女性の身体を装飾品として囲い込むオートクチュールの階級性。
そして、男女の衣装を厳格に隔ててきたブルジョワの規範。
彼はタキシードを女に与え(Le Smoking, 1966)、サファリジャケットとパンツスーツを翻訳し、シースルーとジャンプスーツで身体の可視性を問うた。
1966年にはRive Gaucheを立ち上げ、クチュリエとして初めて正式にプレタポルテへ踏み込み、贅を街へ開いた。
解放と、民主化。
それが看板の裏に流れていた思想だった。
ところが、その解放は最初から矛盾を抱えていた。
女性を解放すると謳いながら、その解放はまず高価なオートクチュールとして富裕層に供給された。
Rive Gaucheで民主化を掲げても、行き着いた先はパリ証券取引所の上場であり、PPR/Kering傘下の巨大資本だった。
2023年のSaint Laurentの年商はおよそ31.8億ユーロ、店舗は世界300を超える。
反抗の記号が、資本の商品になる。
この逆説は、名の分裂とまっすぐ地続きだ。
Le Smokingが女に男の礼服を与えたのは、一人の作家の署名によってだった。
その署名——カサンドルのモノグラム——が、いまや服からは剥がされ、化粧品にだけ残る。
解放の思想を刻んだ記号は、二つの資本に切り分けられ、片方は工業書体に、片方は資産として保存された。
創業者が戦った階級性の内側へ、その名は静かに回収されていった。
ひとつだけ、まだ答えの出ていないことがある。
カサンドルのモノグラムを守っているのが化粧品の資本だという事実を、解放の思想の生き残りと呼ぶべきなのか、それとも思想を抜き取られた記号の剥製と呼ぶべきなのか。
冒頭に置いた問い——女が男の服を纏うことは服従の借用か解放の獲得か——は、いまや別の問いに姿を変えている。
看板の三文字を守るのは、思想か、それとも売れるという事実か。
口紅の瓶に残るあのモノグラムを見るたび、その問いは開いたままだ。
FAQ
なぜ服のラインは「Yves」を捨てたのか
2012年にエディ・スリマンがプレタポルテを「Saint Laurent Paris」へ改称し、ロゴをブロック体Helveticaに変えたためです。
翌2013年、親会社PPRはKeringへ改称し、Saint Laurentはその子会社となりました。
改称の背景には、メゾンが一人の作家の署名ではなく企業の資産として運営される段階に入ったことがあります。
なぜ化粧品だけがカサンドルのモノグラムを保っているのか
化粧品ライン「Yves Saint Laurent Beauté」が2008年にロレアルに取得され、服とは別の企業の資産になったからです。
ロレアルには名とモノグラムを変える動機がなく、むしろ「Yves Saint Laurent」の名とカサンドルの三文字そのものが化粧品市場での価値だったため、これを保持しました。
カサンドルのモノグラムはいつ生まれたのか
創業まもない時期、イラストレーターでグラフィックデザイナーのカサンドルが手がけました。
絡み合う三文字によるYSLのロゴで、フルール・ド・リスに着想したと伝えられます。
この署名は現在、服のラインからは外れ、化粧品にのみ残っています。
この記事について
本記事は、公開されている一次情報を多言語で収集し、記述ごとに出典と突き合わせて検証したうえで執筆しています。裏が取れなかった事項は断定せず、資料が食い違う点は両論を併記します。編集部の二段階の査読(事実の正確性/編集としての品位)を経て公開しています。
執筆・編集:REPOSITORY ONE 編集部



