21歳で世界的ブランドの頂点に立った男——サンローランの信じられない出発点

普通の会社なら、入社二年目の若手がいきなり社長に据えられることはない。
だが1957年、パリのモード界でそれが起きた。
イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は21歳で、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)という世界最大の名門メゾンの主任デザイナーになった。
そして最初の仕事で、喝采を浴びた。
話はここで終わらない。
この華々しい出発点は、数年後に彼を精神の崩壊寸前まで追い込む伏線でもあった。
まずは、その驚くべき昇進から見ていく。
21歳、いきなり頂点に据えられた
抜擢の異常さは、当時のディオールがどれほど巨大だったかを思えばはっきりする。
1950年代のパリにおいて、Christian Diorはモードそのものの代名詞だった。
戦後の女性像を「ニュールック」で塗り替え、フランスの輸出を支える国家的な産業でもあった。
その頂点にいた男が、1957年に心臓発作で急逝する。
後を託されたのが、入社してわずか二年ほどの青年だった。
年齢は21歳。
いくら才能があっても、これは尋常な人事ではない。
数百人の職人を抱えるメゾンの、シーズンごとの命運を、二十歳そこそこの若者に握らせる。
取引先も、顧客も、報道陣も、固唾を呑んで初仕事を待っていたはずだ。
彼は、その重圧の下で最初のコレクションを出した。
最初の一手が、当たった
結論から言えば、デビュー作は大成功だった。
1958年に発表した「トラペーズ・ライン(Trapèze Line)」は、上半身を絞らず、裾に向かってゆるやかに広がる台形のシルエットだった。
身体を締めつけない、若々しく軽やかな服。
批評家は絶賛し、青年デザイナーは一夜にしてフランスの希望になった。
新人が社長になり、しかも最初の決算で黒字を出した——おおよそ、そういう出来事である。
このとき、彼はまだアルジェリアのオランで裕福な家庭に育った、少し前の学生にすぎない。
保険会社と映画館を経営する父のもと、二人の妹と海辺で夏を過ごしていた子ども。
学校では女性的だと見なされ、殴られ、いじめられた。
その少年が、絵と紙人形で服を空想し、17歳でパリに出た。
そこから数年で、世界の頂点にいた。
Vogueのミシェル・ド・ブリュノフ(Michel de Brunhoff)が才能を見抜き、Diorに引き合わせた。
運が良かったのは確かだ。
ただ、運だけでトラペーズは生まれない。
締めつけない服という発想には、後年の彼を貫く一本の芯がすでに通っていた。
女性を、服から自由にすること。
だが、この幸福な出発点には、まだ語られていない裏がある。

頂点のあとに来たのは、崩壊だった
栄光の物語として読むと、ここで足を掬われる。
1960年、Yves Saint Laurentはアルジェリア独立戦争の徴兵を受けた。
名声の絶頂にいた青年が、軍隊に取られたのである。
神経の細い彼は、そこでの過酷ないじめとストレスに耐えられなかった。
体を壊し、精神が崩れた。
軍病院ヴァル=ド=グラース(Val-de-Grâce)に入院し、精神科の治療を受ける。
鎮静剤、向精神薬、そして電気ショック療法。
栄光からわずか三年で、彼は病室にいた。
追い打ちがある。
入院中に、Diorから職を失ったと告げられた。
頂点に立たせたメゾンが、崩れた本人を切った。
傷つきやすさと大胆さが同居したこの作家は、いちばん弱っているときに、いちばん重いものを失ったことになる。
もっとも、彼はここで消えなかった。

喪失から、自分のメゾンを鋳造した
倒れた場所から、彼は立ち上がる。
しかも、報復の形で。
回復後、Yves Saint LaurentはDiorを契約違反で訴え、勝訴した。
得た和解金は4万8千ポンド。
この金と、1958年に出会った生涯の伴侶ピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)、そしてアメリカの実業家J・マック・ロビンソン(J. Mack Robinson)の出資を元手に、1961年、自らの名を冠したオートクチュールのメゾンを立ち上げた。
ブランドの三つ組み文字のロゴは、グラフィックデザイナーのカッサンドル(Cassandre)が手がけた。
自分を切ったメゾンの向こうに、自分のメゾンを建てる。
喪失を、独立の資本に変えたわけだ。
ここに至って、あのトラペーズの芯が本領を現す。
1962年に最初のオートクチュール・コレクションを発表。
以後、彼は男の衣装を女のために翻訳しはじめる。
1966年の「ル・スモーキング(Le Smoking)」——女性のためのタキシードは、その象徴だった。
男の礼服を女性に与えるという、当時としては挑発的な一手。
女性を服従から解くのか、それとも男の記号を借りるだけなのか。
この問いは、彼のキャリア全体につきまとうことになる。
ただ、それはまた別の長い話だ。
いまはただ、出発点に戻っておきたい。
21歳で頂点に立ち、そこから転げ落ち、落ちた底から自分の名前を立ち上げた。
この振れ幅の大きさこそが、彼という作家の全体を貫いている。
締めつけない服を最初に描いた青年は、自分自身が締めつけから何度も逃れなければならなかった。
その最初の一歩が、あまりに早く訪れた栄光だった。

FAQ
なぜ21歳の若者がディオールの後継に選ばれたのか
Christian Diorの生前、Yves Saint Laurentはすでに助手として「Aライン」の制作に関わり、才能を認められていた。
1957年のDior急逝という突然の事態のなか、メゾンは彼を主任デザイナーに据えた。
抜擢の年を1958年とする記録もあるが、いずれにせよ21歳での就任という点は一致している。
トラペーズ・ラインはなぜ評価されたのか
上半身を締めつけず、裾へ向かって台形に広がる軽やかなシルエットが、当時の女性たちに新鮮に映ったためだ。
身体を解放する方向性は、後のル・スモーキングやパンツスーツにつながる、彼の一貫した主題の最初の表れでもあった。
ディオールを解雇されたあと、彼はどうなったのか
軍隊での不調から回復したのち、彼はDiorを契約違反で訴えて勝訴し、和解金を得た。
その資金とPierre Bergéらの支えを元手に、1961年、自身のオートクチュール・メゾンを設立した。
解雇という痛手が、独立の直接のきっかけになった。
この記事について
本記事は、公開されている一次情報を多言語で収集し、記述ごとに出典と突き合わせて検証したうえで執筆しています。裏が取れなかった事項は断定せず、資料が食い違う点は両論を併記します。編集部の二段階の査読(事実の正確性/編集としての品位)を経て公開しています。
執筆・編集:REPOSITORY ONE 編集部



