【徹底解説】エディ・スリマン(Hedi Slimane)の生涯|服より先にイメージを握った男

エディ・スリマンは、服のデザイナーであると同時に写真家である。
彼が握ったのは細身のシルエットだけではない。
ロゴ、広告、店舗、音楽、そしてブランドの名前そのものまでを一人で統べた。
だから彼を語ると、いつも同じ問いにぶつかる。
創設者の名前を消してもなお成立するブランドとは、いったい誰のものなのか。
礼賛の言葉で片づけるには、彼はやや厄介な人物だ。
行く先々のメゾンで記録的な数字を叩き出し、同時に創業者の記号を削り、退任のたびに訴訟や交渉決裂を残していく。
まずは、その手つきがどこから来たのかを見ていきたい。
幼少期 — 仕立てとカメラが同時に身体に刻まれた
1968年7月5日、パリに生まれた。
父はチュニジア人の会計士、母はイタリア人の裁縫師で、二人の叔父は仕立屋だった。
服はごく近くにあった。
幼いスリマンは自分でデザインをスケッチし、母と生地を買いに行き、裁断と縫製は母が担った。
手を動かして服が立ち上がる過程を、彼は子どもの頃から見ていたことになる。
11歳のとき、初めてのカメラを手にした。
写真は独学で、白黒の現像まで自分で覚えている。
この二つが同じ時期に身についた点は、後年を読むうえで無視できない。
彼はやがて、服を作る人間と、その服を撮る人間を、同じ一人に統合していくからだ。
もっとも、彼はファッションを学校で学んでいない。
専攻は政治学で、ルーヴル美術学校では美術史を修めた。
ジャーナリズムの道も志していた時期がある。
だから「叩き上げのデザイナー」という像は、半分しか当たっていない。
正式な訓練は受けていないが、母との服作りがあり、二人の叔父は仕立屋で、後にメンズハウスで仕立ての見習いも修了している。
手仕事の記憶と、学問としての美術史。
その両方が下敷きになっている。
仕事の遍歴 — 記号を削り、イメージで塗り替える
在籍したメゾンを時系列で並べると、こうなる。
Yves Saint Laurent(1996年入社〜「Black Tie」で退社)→ Dior Homme(2000〜2007年)→ Yves Saint Laurent 復帰(2012SS期〜2016AW)→ Celine(2018〜2024年)。
同じメゾンに二度関わり、しかも二度目は名前を変えて戻っている点が、すでに彼らしい。
出発点は裏方だった。
1992年から1995年、ファッションコンサルタントのジャン=ジャック・ピカールのもとで、Louis Vuitton のモノグラム・キャンバス100周年プロジェクトに携わる。
そこでピエール・ベルジェに紹介された。
この一本の線が、彼のキャリアを決めた。
ベルジェは1996年、スリマンを Yves Saint Laurent のメンズ・プレタポルテ・ディレクターに据える。
やがてアーティスティック・ディレクターに昇格し、「Black Tie」コレクションを発表した。
ここで彼は、後の代名詞となる極端に細いシルエット、いわゆる「スキニー」の美学を打ち出す。
そして、このメゾンを去った。
ジル・サンダーからのオファーも断っている。
次が Dior Homme だ。
2000年から2007年、後に「エディ期」と呼ばれる時期である。
彼はメンズのスキニーシルエットを世界へ広めた。
腰で穿くタイトなジーンズ、ブレザーとロウデニムの組み合わせで、エレガンスと都会性を橋渡しし、男性性のなかに両性的な質を持ち込んだ。
着想源はニューヨークの音楽シーンだった。
2003年春夏の「Follow Me」、同年秋冬の「Luster」あたりが特に注目され、Dior Homme のメンズ初のデニムも2003年春夏に出ている。
数字も動いた。
エディ期のDiorメンズは売上が40%以上伸びた黄金期となる。
2001年6月には初のフレグランス「Higher」を、2007年後半にはメンズスキンケア6品目を、パッケージデザインまで自ら手がけて送り出した。
服の外側にある香りやパッケージまで統べる姿勢が、ここですでに出ている。
ここで一つ、意外な事実を挟んでおく。
Dior Homme 時代、彼は一度もウィメンズコレクションをデザインしていない。
それでいてマドンナやニコール・キッドマンに衣装を提供し、The Libertines、Daft Punk、Franz Ferdinand、Mick Jagger、Beck、Jack White らのステージ衣装も手がけた。
「メンズ専門家」という括りは、この時点で崩れる。
2007年、彼はDiorを去る。
本人が挙げた理由は、Dior傘下で自身のブランドを立ち上げる計画が実現しなかったことだった。
自分の名を持てないこと。
これが彼の恐れの一つだったと見ていい。
以後、彼はしばらく写真家として活動する。
そして2012年、Yves Saint Laurent に復帰する。
ただし今度はメンズだけではなく、ウィメンズ、アクセサリー、キャンペーンビジュアル、店舗設計まで、すべてを統括するクリエイティブ・ディレクターとしてだった。
彼はこれを「サンローラン・リフォームプロジェクト」と呼んだ。
最初の手つきは名前である。
「イヴ」を外して「サンローラン」に、YSLロゴを廃してシンプルなHelveticaフォントへ。
破壊のように見えるこの変更は、しかし創設者イヴ・サンローランが1966年に「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」を立ち上げた際のロゴと同じものだった。
原点回帰でもあったわけだ。
続いて、デザインスタジオをパリの本社から9,000km離れたロサンゼルスへ移す。
広告は自分で撮った。
モノトーンでグラムロック調のビジュアルにミュージシャンを起用し、「サンローラン・ミュージックプロジェクト」と名づける。
店舗も白と黒の大理石で刷新した。
名前、場所、写真、内装。
すべてを塗り替えている。
服そのものも一貫していた。
2013年春夏ウィメンズはイヴ・サンローランの1967年サファリジャケットをロック風にアレンジし、同年秋冬メンズはカート・コバーン風のグランジをまとった。
2015年春夏メンズ「Psych Rock’s New Rising」はサイケデリックな刺繍とナバホ風のシルバーで組まれている。
ロックと少年性、スーパータイトなシルエット。
Dior期の主題がそのまま持ち込まれた。
ここで彼の矛盾がひとつ表に出る。
創業者の名を外した男が、在任の最後に、そのムッシュが大切にしたオートクチュールのアトリエを復活させたのだ。
パリ左岸、ルイ14世時代に建てられた歴史的邸宅を3年かけて修復し、クチュールサロンに再生させた。
アールデコやルイ16世様式の家具を集め、2016年秋冬レディースコレクションをこのサロンで発表して、彼はメゾンを去った。
名を削り、権威を回収する。
この両方を同じ人物がやっている。
売上は大きく伸びた。
ただし、どれくらい伸びたかには食い違いがある。
就任前から約1.5倍とする記述がある一方、在任4年で事業が約3倍になったとする記述もある。
どちらが正確かは、ここでは断定できない。
確かなのは、Keringグループ内でトップクラスのブランドに育ったことだ。
退任は静かではなかった。
スリマンは最終年2016年の未払い給与をめぐってKeringを提訴し、勝訴する。
写真・映像の無断使用でも約70万ドルの賠償を勝ち取った。
一連の訴訟で彼が得た総額は2200万ドルを超えるとされる。
イメージの統御権を他者に奪われることへの拒否が、法廷にまで及んだ格好だ。
最後が Celine だ。
2018年、Phoebe Philo の退任後に着任する。
着任初日、彼はモノグラムを再構築したと伝えられる。
ブランド名とロゴからはアクセント記号を削った。
「Céline」から「Celine」へ。
Saint Laurent での手つきと、まったく同じである。
彼は「トリオンフ」モノグラムを前面に押し出した。
ただしこれは彼の新作ではない。
起源は1971年、創業者セリーヌ・ヴィピアナが凱旋門を囲む鎖の装飾に着想を得たモチーフにある。
スリマンはそれを2018年に再導入したのだ。
Celine では事業も広げた。
メンズウェア、2019年デビューのオートパフューマリー、そしてハウス史上初のコスメティックライン「Celine Beauté」。
ボーテは2024年秋にサテンリップ「ルージュ・トリオンフ」で発売され、リップ全15色のうち「ラ・ポー・ニュ」は2025年発売とされる。
香水事業の一部ではなく、別立ての新事業だ。
映像への傾斜も強まった。
2021年秋冬のファッションフィルム「Teen Knight Poem」はシャンボール城を舞台に、モデルを城を襲撃する若い騎士として描いた。
特大のシルバーチェーン、フリルの襟、紋章のように使われたセリーヌのロゴが並ぶ。
2022年春夏「Baie Des Anges」はニースのプロムナード・デ・ザングレを背景に、カイア・ガーバーとBLACKPINKのリサを起用。
同年秋冬「Dans Paris」はオテル・ド・ラ・マリーヌとアンヴァリッドを舞台にした。
2024年秋冬ウィメンズ「La Collection de l’Arc de Triomphe」は、ハウス1960年代の全盛期のモッズ美学を呼び戻している。
数字はここでも出た。
2023年、スリマンが牽引した Celine はLVMHの年次報告書で記録的な年とされている。
それでも彼は残らなかった。
2024年初頭に契約が終了し、新たな合意に向けた交渉は成立しない。
約7年で退任した。
後任は、ポロ ラルフ ローレンの元クリエイティブ・ディレクター、マイケル・ライダーである。

影響を受けたもの、拒んだ美
彼を動かした人物は少ない。
ピカール、ベルジェ、そして初期に働いたデザイナーのジョゼ・レヴィ。
参照点としてのイヴ・サンローラン。
人よりも、文化のほうが濃く効いている。
ニューヨークの音楽シーン、グラムロック、カート・コバーン風のグランジ、サイケデリックロックとナバホ文化、1960年代のモッズ。
そしてルーヴル美術学校で学んだ写真と美術史。
彼のコレクションは、これらの断片を細身のシルエットに縫い込んで組み立てられている。
拒んだものははっきりしている。
装飾過多、柔らかな曲線、そして継承された記号がまとう「重み」だ。
アクセント記号を消し、ロゴをHelveticaに変える行為は、この重さを削ぐ作業だった。
過剰と冗長を、彼は一貫して嫌っている。

矛盾 — 名を消す男が、権威を復活させる
彼の生涯を一枚の絵にすると、二つの動作が同時に見える。
片方で創業者の記号を削り、もう片方で権威を回収する。
Saint Laurent がその典型だ。
「イヴ」を外して名を軽くしながら、1966年のロゴへ回帰させ、最後にはオートクチュールのアトリエを3年かけて復活させた。
削除と原点回帰が、一人の手のなかで同居している。
矛盾と呼ぶこともできるし、周到な設計と読むこともできる。
もう一つの矛盾は、収益と決別のあいだにある。
彼は行く先々で記録的な数字を出した。
にもかかわらず、Diorでは自社ブランドの夢が絶たれて去り、Saint Laurentでは訴訟に至り、Celineでは交渉が決裂した。
稼ぎながら、留まれない。
稼ぐことと、自分のイメージを他者に握られないこと。
この二つが彼のなかで衝突し続けたように見える。

誤解
いくつかの通説を、事実に照らして解いておきたい。
まず「スキニージーンズを発明した」。
事実が語るのは発明ではなく、普及・流行だ。
彼は「Black Tie」でスキニーの美学を導入し、Dior Homme 初期の2000年代にメンズのそれを世界へ広めた。
「アクセント記号を消すだけの、表面的なロゴいじり」も違う。
名称変更は、本社移転、広告の自作、店舗設計、時にオートクチュールの復活まで含む一貫した再編の一部だった。
「Saint Laurent の改名は創設者への敬意を欠く独断だ」というのも一面的だ。
あの名は1966年のロゴへの回帰であり、彼は在任最後にムッシュのアトリエを蘇らせている。
「Celine のトリオンフは彼の新デザイン」も誤りだ。
起源は1971年のセリーヌ・ヴィピアナにある。
彼は再導入した。
そして「Keringとは円満に別れ、静かに写真へ戻った」。
実際は提訴して勝訴し、総額2200万ドル超を勝ち取っている。

神話と、その裏側
黒革のジャケットにジーンズ。
SNSを避け、メディアに寡黙。
孤高のクリエイター。
スリマンはそう語られてきた。
着任初日にモノグラムを作り替えたという逸話、クチュールサロンの修復に3年を費やしたエピソードも、神話として繰り返される。
ただ、見落とされがちな点がある。
その寡黙さ自体が、周到なイメージ戦略でもありうることだ。
彼は写真も店舗も広告も自分の手で統御した人物だ。
だとすれば、自分がどう写るかを管理しないはずがない。
沈黙もまた、彼が握ったイメージの一部だったのかもしれない。

こぼれ話
Saint Laurent 退任後、彼は @hedislimanehomme という新しいInstagramアカウントを開設し、自身のキャリアのアンソロジーを並べた。
SNSを避けると言われた人物が、自分の仕事の見せ方だけは手放さなかったわけだ。
Dior期のスタイリングにも彼の癖が残る。
2004年秋冬のシャドーストライプのテーラードジャケット、2006年秋冬のナローボーダーマフラー。
そしてスキニージーンズを穿くとき、トップのホックを留めずに腰で穿くのを好んだと伝えられる。
細部の一つ一つに、彼の身体感覚が出ている。

History
- 1968年:パリに生まれる。父はチュニジア人の会計士、母はイタリア人の裁縫師。
- 1979年頃(11歳):初めてのカメラを手にし、写真と白黒現像を独学で習得。
- 1992〜1995年:ジャン=ジャック・ピカールのもと、Louis Vuitton のモノグラム100周年プロジェクトに参加。ピエール・ベルジェに紹介される。
- 1996年:ベルジェにより Yves Saint Laurent のメンズ・プレタポルテ・ディレクターに就任。のちアーティスティック・ディレクターへ。「Black Tie」でスキニーの美学を打ち出し退社。
- 2000〜2007年:Dior Homme のクリエイティブ・ディレクター。「エディ期」と呼ばれ、メンズ売上が40%以上伸びる。2001年に初のフレグランス「Higher」、2003年春夏にメンズ初のデニム。
- 2002年:CFDA 国際デザイナー賞を受賞。
- 2007年:写真活動に専念するため Dior Homme を退任。
- 2012年:Yves Saint Laurent に復帰。「Saint Laurent Paris」へ改称、スタジオをロサンゼルスへ移す。
- 2016年:オートクチュールのアトリエを復活させ、秋冬レディースを発表して退任。Kering を提訴。
- 2018年:Phoebe Philo 退任後の Celine のクリエイティブ・ディレクターに就任。着任初日にモノグラムを再構築、アクセント記号を削除。
- 2019年:Celine のオートパフューマリーをデビュー。
- 2023年:Celine が LVMH の年次報告書で記録的な年に。
- 2024年:契約終了。「Celine Beauté」を発売。10月に退任、約7年の在任を終える。後任にマイケル・ライダー。

FAQ
Q. エディ・スリマンはどのメゾンでクリエイティブ・ディレクターを務めたのか。
A. Dior Homme(2000〜2007年)、Yves Saint Laurent(2012〜2016年)、Celine(2018〜2024年)である。
それ以前、1996年から Yves Saint Laurent のメンズ・プレタポルテ/アーティスティック・ディレクターも務めている。
Q. 彼はファッションの正式な教育を受けたのか。
A. 受けていない。
専攻は政治学で、ルーヴル美術学校では美術史を修めた。
ただし幼少期に裁縫師の母と服を作り、二人の叔父は仕立屋で、メンズハウスで仕立ての見習いも修了している。
Q. スキニージーンズはスリマンの発明なのか。
A. 発明ではない。
検証済みの事実が語るのは「普及・流行させた」ことだ。
「Black Tie」でスキニーの美学を導入し、Dior Homme 初期の2000年代にメンズのそれを世界へ広めた。
Q. Saint Laurent の改名は創設者への破壊行為だったのか。
A. 一面的な見方だ。
「サンローラン」という名は、創設者が1966年の「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」で用いたロゴへの回帰でもあった。
彼は在任最後にオートクチュールのアトリエを3年かけて復活させてもいる。
Q. Celine の退任は業績不振によるものか。
A. 違う。
スリマン期の Celine は目覚ましく成長し、2023年は LVMH の年次報告書で記録的な年とされた。
退任は2024年初頭の契約終了と、新たな合意に向けた交渉不成立の結果である。
Q. なぜ「イメージを握った男」と呼ばれるのか。
A. 彼は服だけでなく、ロゴ、広告写真、店舗設計、音楽、香水、そしてブランド名まで一手に統御したからだ。
広告は自ら撮影し、Kering との訴訟では写真・映像の著作権をめぐって争い勝訴している。
行き着く上位概念
冒頭の問いに戻る。
創設者の名を消してもなお成立するブランドとは、誰のものなのか。
スリマンの答えは、服だけでは出せなかった。
彼は名前を削り、ロゴを変え、本社を移し、広告を自分で撮り、店を設計し、音楽を選び、香りとリップまで作った。
服より先にイメージ全体を握ること。
それが彼のやり方だった。
デザイナーが写真・店舗・音楽・ロゴまで統べる「クリエイティブ・ディレクター」という像は、彼の手で大きく広がった。
その果てに残ったのは、二つの遺産だ。
メンズのスキニーとユニセックスウェアの普及。
そして、デザイナーのイメージ著作権をめぐる先例であり、訴訟で勝ち取った2200万ドル超がそれを刻んでいる。
削除と原点回帰の矛盾、身体の細分化とジェンダーの流動性、ロックと若さのブランド化、そしてデザイナーの著作権と労働。
スリマンという一人の手つきは、これらの主題へまっすぐ続いている。
彼が最後まで開いたまま残したのは、たぶんこの問いだ。
イメージを統べる者は、はたしてブランドの持ち主になれるのか。



