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香水「Opium」はなぜ生まれたのか——1977年、サンローランが纏わせた東洋という夢

2026.08.26 Saint Laurent 編集部
合理化から豪奢への転回——男物の翻訳とは真逆の、ロシア宮廷とオリエントの幻へ舵を切った瞬間を理解させる

一本の香水に「阿片」と名づけた男がいた。
1977年、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)はそのスキャンダラスな名を世界に放ち、勝った。
結論を先に言えば、Opium(オピウム)は香りの発明である以前に、彼が布地で追い続けた「東洋という夢」を、瓶に移し替えたものだった。
前年のロシア・バレエに着想したコレクションと、この香水は地続きにある。
だから香りの話をする前に、まず布の話から始めるしかない。

1976年、彼はまずロシアを纏わせた

Opiumを理解するなら、その一年前に発表されたコレクションから見なければならない。

1976年、サンローランはパリのホテル・インターコンチネンタルで「Opéras – Ballets russes(オペラ/バレエ・リュス)」コレクションを発表した。
着想源はロシア・バレエと、オリエンタリズム(東洋趣味)を描いた絵画。
輝くような色彩と、贅を尽くした織物。
そこにあったのは、当時の彼が突き進んでいた合理化——タキシードやサファリジャケットといった男物の翻訳とは、真逆の方向だった。

つまり、ここで彼は一度、進路を折り返している。

Le Smoking(ル・スモーキング)で女性に男の礼服を与え、Rive Gauche(リヴ・ゴーシュ)で贅を街に開いた男が、突然、機能とはほど遠い豪奢へ舵を切った。
パンツスーツの直線を捨て、ロシア宮廷とオリエントの幻を布に盛った。
矛盾に見える。
ただ、この転回こそが翌年のOpiumを準備した。

なぜ「阿片」だったのか

Opiumという名が語るのは、香りの成分ではなく、彼が見ていた東洋の像そのものだ。

1977年に発売されたこの香水は、世界的な成功を収めた。
名前は挑発的だった。
麻薬の名を高級香水に冠する——それ自体がスキャンダルの装置として機能した。
だが名前の由来を、単なる話題づくりに還元すると、肝心のことを見落とす。
この命名は、前年のバレエ・リュスのコレクションが纏っていた「東洋への憧れ」を、言葉のかたちで凝縮したものだった。

異国は、ここで商品名にまで昇華している。

布で表現された東洋の夢——輝く色彩、重い織物、宮廷とオリエントの幻——それを、彼は嗅覚の領域へ移した。
目で見る夢だったものが、身に纏う匂いになった。
コレクションでは布地が担った「遠い異国」の記号を、香水では名前と香りが引き継いだわけだ。

もっとも、ここで立ち止まりたくなる。
彼にとっての「東洋」とは、実在の東洋だったのか。

麻薬の名を高級香水に冠する挑発が、コレクションの東洋への憧れを言葉へ凝縮した命名装置であったことを理解させる

サンローランの東洋は、どこにあったのか

彼のオリエンタリズムは、地図の上の東洋ではなく、絵画と舞台の中の東洋だった。
ここが肝心なところだ。

思い出しておきたいのは、彼の生い立ちである。
イヴ・アンリ・ドナ・マチュー=サンローラン(Yves Henri Donat Mathieu-Saint-Laurent)は1936年、当時フランス領だったアルジェリアのオランに生まれた。
両親はフランス系入植者、いわゆるピエ・ノワール(Pieds-Noirs)。
裕福な家で、父は保険会社を営み、映画館を複数所有していた。
少年は姉妹とともにオランの邸宅で育ち、夏はトゥルーヴィルの避暑地で過ごした。

北アフリカで生まれ育った男が、フランスで「東洋という夢」を布に描いた。
この事実は、簡単に因果で結ばない方がいい。

というのも、彼の1976年のコレクションが着想したのは、実際のオリエントではなく、オリエンタリズムを描いた絵画とロシア・バレエだったからだ。
参照されたのは異国そのものではなく、西欧が異国を想像して作り上げた表象——絵と舞台の中の東洋だった。
彼が纏わせたのは、東洋ではなく、東洋というだったのである。

この距離を、Opiumという名前ほど正直に示すものはない。

阿片は、十九世紀以来、西欧が東洋に投影してきた幻想の記号だ。
官能、頽廃、抗いがたい魅惑。
それは東洋の実像ではなく、西欧の欲望が東洋に貼りつけた像である。
サンローランがこの一語を選んだとき、彼は自分の東洋が想像の産物であることを、隠すどころか看板に掲げた。

彼の東洋が地図上の実在ではなく、西欧が想像で作り上げた絵画と舞台の中の表象であったことを理解させる

崩壊から絞り出された、贅への渇き

ここで一つ、答えの出ない問いが残る。
合理化の頂点にいた彼が、なぜ突然、豪奢な幻へ折り返したのか。

手がかりは、彼という作家の人格にある。
神経を張り詰めた繊細な人だった。
1960年、アルジェリア戦争の最中に彼はフランス軍へ徴兵され、しごきと重圧から心を病んだ。
ヴァル=ド=グラースの軍病院に入院し、鎮静剤や向精神薬を投与され、電気ショック療法まで受けている。
入院中にDior(ディオール)から解雇を告げられた。
喪失の中から、彼はピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)とともに自らのメゾンを立ち上げた。

傷つきやすさと大胆さが、同じ一人の中に同居していた。

その男が布に盛った輝く色彩と重い織物は、機能の対極にある。
Le Smokingが「解放」の記号だったとすれば、バレエ・リュスとOpiumは「陶酔」の記号だった。
緊張の中から美を絞り出す作家が、一度だけ、機能を手放して夢の側へ倒れ込んだ——そう読むこともできる。
ただ、これは見立てにすぎない。
確かなのは、1976年の豪奢と1977年の「阿片」が、同じ渇きから出ていることだけだ。

その渇きが、名前になった。

軍病院での崩壊と喪失から、陶酔と豪奢へ倒れ込む作家気質の緊張が生まれたことを理解させる

夢の代償

Opiumの名は、今日なら通らないだろう。
麻薬の名を冠した官能の香水、西欧が想像した東洋の幻——それを商品として世界中に売った構図には、批判が向けられてきた。
実在の東洋を、西欧の欲望のために消費した、と。

この批判は正しい。
同時に、彼はその欲望を隠さなかった。

サンローランのオリエンタリズムを免罪する必要はない。
だが、彼が纏わせたのが「東洋」ではなく「東洋という夢」であったこと——想像の産物だと名前で告白していたことは、記録しておくに値する。
彼は実像を描いたふりをしなかった。
阿片という、幻想そのものの一語を選んだのだから。

1978年にはメイクアップの「Yves Saint Laurent Beauté」が続き、香りと化粧はメゾンの巨大な収益源になっていく。
夢は、商品として制度化された。

冒頭の問いに戻る。
なぜ彼は香水に「阿片」と名づけたのか。
答えは、彼が前年に布で見ていた夢の続きを、瓶の中で見ようとしたからだ。
目で纏う東洋を、身に纏う匂いへ。
北アフリカに生まれた男がフランスで想像した、実在しない東洋——その最も正直な結晶が、あの挑発的な一語だった。

FAQ

Opiumはどんなコレクションと関係していますか

1976年発表の「Opéras – Ballets russes」コレクションと地続きです。
ロシア・バレエとオリエンタリズム絵画に着想し、輝く色彩と豪奢な織物で東洋の夢を描いたこのコレクションの翌年、その世界観を香りと名前に移し替えたのがOpiumでした。

なぜ「阿片」という挑発的な名前なのですか

阿片は十九世紀以来、西欧が東洋に投影してきた官能と陶酔の幻想の記号です。
サンローランはこの一語で、前年のコレクションが纏った東洋への憧れを凝縮し、同時に自らの東洋が想像の産物であることを看板に掲げました。

サンローランの「東洋趣味」は実在の東洋を描いたものですか

いいえ。
彼が参照したのは実際のオリエントではなく、西欧の画家が想像で描いたオリエンタリズム絵画とロシア・バレエでした。
アルジェリア生まれの彼が纏わせたのは、東洋そのものではなく、西欧が作り上げた「東洋という夢」だったといえます。

この記事について

本記事は、公開されている一次情報を多言語で収集し、記述ごとに出典と突き合わせて検証したうえで執筆しています。裏が取れなかった事項は断定せず、資料が食い違う点は両論を併記します。編集部の二段階の査読(事実の正確性/編集としての品位)を経て公開しています。

執筆・編集:REPOSITORY ONE 編集部

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