【徹底ブランド解説】知られざるディオール(Christian Dior)の歴史|画商崩れが戦後パリに投げ返した、布の贅沢

画商から遅咲きでクチュールに辿り着いた創造者と、布の贅沢による戦後革命を象徴させる
第1章 クリスチャン・ディオール(Christian Dior)期 — 画商崩れが40代で放った、戦後最大の革命

ディオール(Christian Dior)は、1947年の「ニュールック(New Look)」で戦後の女性像を一変させ、パリを再びモードの首都に据えたフランスのオートクチュールメゾンである。
細く絞ったウエストと布をたっぷり使ったスカートで、物資統制の時代に贅沢を真正面から投げ返した。

ただ、この輝かしい物語には裏がある。
「ニュールック」という名前を付けたのはディオール本人ではない。
しかもメゾンを率いた創業者本人の時代は、たった10年ほどで終わっている。
革命と呼ばれた服は、同時に「女性を再び布で縛った」とも言われ続けてきた。
ここが引っかかったまま、話を進めたい。

History

戦後パリの荒廃と、そこから再興するモードの舞台としての歴史的文脈を理解させる

第1章 クリスチャン・ディオール(Christian Dior)期 — 画商崩れが40代で放った、戦後最大の革命

クリスチャン・ディオール(Christian Dior)は、そもそもファッションデザイナーになるはずの男ではなかった。

1905年、フランス・ノルマンディー地方の海辺の町グランビルに生まれた。
父モーリス(Maurice Dior)は肥料・化学会社を営む実業家で、一家は1911年にパリへ移り住む(移住年は1910年とも記される)。
両親が息子に望んだのは外交官の道で、彼はパリ政治学院に入学した。
だが1926年に中退する。

進んだ先は服ではなく、絵だった。
1928年、父の資金援助を得て友人ジャック・ボンジャン(Jacques Bonjean)と画廊を開き、ピカソ(Picasso)、ブラック(Braque)、マティス(Matisse)、ダリ(Dali)といった作家の作品を扱う。
若きディオールは画商だったのだ。

しかしこの画廊は長く続かない。
父の事業が傾き、世界恐慌が重なって、1931年に閉鎖される。
追い打ちのように、彼自身が結核を患った。
カリヤンの田舎家で一年間の療養を強いられる。

転機はこの病床で訪れた。
療養中、ディオールはファッションのスケッチを始め、それをパトゥ(Patou)、ウォルト(Worth)、スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)といったメゾンに売った。
画商崩れが、絵を売る側から服の絵を描く側へ移っていく。
やがてロベール・ピゲ(Robert Piguet)に雇われ、リュシアン・ルロン(Lucien Lelong)のメゾンでデザイナーを務め、オートクチュールの世界に本格的に足を踏み入れた。

彼が独立するのは40歳を過ぎてからだ。
実業家マルセル・ブサック(Marcel Boussac)の財政支援を受け、1946年12月16日、パリのモンテーニュ通り30番地にクチュールメゾンを開く。
初期資本は600万フラン(6000万フランとも)、従業員は80〜85人だった。

戦争の傷はメゾンの創業者に深く刻まれていた。
妹のカトリーヌ(Catherine Dior)はフランスレジスタンスの一員として告発され、ラヴェンスブリュック強制収容所に送られている。
解放されたのは1945年。
荒廃と喪失の記憶が、次に生まれる服の背景にあった。

1947年2月12日、最初のコレクションが発表される。
ラインの名は「コロール(Corolle)」と「ユイット(Huit)」。
丸みを帯びた肩、細く絞ったウエスト、たっぷりと布を使ったボリュームのあるスカート。
戦時下の簡素な服とは正反対の、贅沢そのものだった。

これを見たハーパーズ・バザー(Harper’s Bazaar)編集長カーメル・スノウ(Carmel Snow)が放った一言が、歴史を決めた。
「ニュールック」。
ディオール自身の言葉ではない。
編集者の即興が、そのままファッション史に刻まれた。

象徴となったのはバー・スーツ(Bar suit)である。
物資統制がまだ続くなか、一着に大量の布を使うこの服は、耐乏の時代への挑発でもあった。
批判はあった。
それでも世界は贅沢の記憶に飢えていた。
ニュールックは戦後パリをモードの中心地として再び確立させる。

ディオールは商売の広げ方も速かった。
1947年12月には最初の香水ミス ディオール(Miss Dior)を発売する。
服の成功後に始めた副業ではなく、香水部門はごく初期から事業計画に組み込まれていた。
1948年にはニューヨーク5番街にブティックを開き、1950年には「Dior」の名をネクタイや帽子、ハンドバッグへとライセンス展開する。
ラグジュアリーを世界規模のビジネスにする型を、彼は早くも描いていた。

その頂点で、幕は突然下りる。

1957年10月24日、クリスチャン・ディオール死去。
メゾンを実際に率いた期間は、わずか10年ほどだった。

— 要点 —
– ディオールは外交官志望→画商→病床のスケッチを経て、40代でクチュールに辿り着いた遅咲きの創造者
– 1947年のニュールックは布の贅沢で戦後パリをモードの首都に再興させた
– 「ニュールック」の名付け親は本人ではなく編集者カーメル・スノウ
– 創業者本人の時代は約10年で終わった

第2章 イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)期 — 21歳の継承と、才能を手放した別れ

創業者を失ったメゾンが後任に選んだのは、21歳の青年だった。

イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は、その若さでディオールのアーティスティックディレクターに就く。
デビューは1958年春夏の「トラペーズ(Trapèze)」コレクション。
ウエストを締めず、肩から裾へ台形に広がるシルエットで、ニュールックの絞りとは別の身体観を提示した。
若すぎる継承は、そのまま若すぎる栄光になる。

「独立独歩の天才」というイメージが強い。
だが彼のキャリアの出発点はディオールである。
自分の名を冠したブランドは、この継承の後に来る。

ここに、このメゾンの奇妙な役回りが見える。
ディオールは才能を見出し、鍛え、頂点へ押し上げた。
そしてその才能は、やがて自分のブランドへと去っていく。
サンローランはその最初の例だった。
以後もディオールは登竜門であり続けるが、育てた個性を自ブランドに手放す構造もまた、ここから始まる。
育てた者が去った後に残るのは、名前と、その名を継ぐ次の誰かだ。

別れの余韻は、メゾンの側にこそ濃く残った。

— 要点 —
– サンローランは21歳でディオールを継いだ
– デビュー作「トラペーズ」はニュールックとは異なるシルエットを打ち出した
– ディオールは才能の登竜門でありながら、育てた個性を自ブランドへ流出させる構造をここで抱え込んだ

若すぎる継承と、才能を育てては手放すメゾンの構造を理解させる

第3章 マルク・ボアン(Marc Bohan)期 — 創業者より長く支えた30年の長期政権

このメゾンで最も長く舵を取ったのは、実は創業者ではない。

マルク・ボアン(Marc Bohan)は1960年にディレクターに就任し、翌1961年に「スリムルック(Slim Look)」を打ち出した。
約30年在籍し、創業者本人より長くメゾンを支えた。

派手さでは語られにくい人物だ。
だがその功績は地味ではない。
子供服やメンズラインを発表し、ディオールをより大きな企業へと育てた。
革命の後に必要だったのは、安定した経営だった。

— 要点 —
– ボアンは約30年在籍し、創業者より長く務めた
– 子供服・メンズ展開でメゾンを企業として拡大させた

革命の後に必要だった安定と長期の企業拡大を理解させる

第4章 ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)期 — 建築家出身が持ち込んだ構築の美学

1989年、初めてイタリア人がディオールを率いる。

ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)はクリエイティブディレクターに就任し、1990年春夏には黄色のドレス、同年秋冬にはピンクのコートを見せた。
1993年春夏オートクチュールは「アンプレッション・デテ(Impressions d’été)」と題された。

フランスの象徴的メゾンにイタリアの感性が入ったこの時期は、後継者ごとに他者の思想が「Dior」の名を借りて交代していく構造を、はっきり示した。

— 要点 —
– フェレは1989年就任、ディオール初のイタリア人ディレクター
– 代表作に1993年春夏オートクチュール「アンプレッション・デテ」

建築家出身の構築美と、他者の思想が名を借りて交代する構造を理解させる

第5章 ジョン・ガリアーノ(John Galliano)期 — 劇場化した栄光と、突然の追放

ディオールを最も演劇的にしたのは、この男だった。

ジョン・ガリアーノ(John Galliano)は1996年にクリエイティブディレクターに任命される。
翌1997年秋冬のデビューは、1930年代の上海と女優アンナ・メイ・ウォン(Anna May Wong)に着想したものだった。
1998年春夏オートクチュールはオペラ・ガルニエで催され、伝説の伯爵夫人マルケーザ・カサティ(Marchesa Casati)に触発された豪奢なショーとなる。
オートクチュールをスペクタクルへ変えた14〜15年だった。

その栄光は、一夜で崩れる。
2011年3月、反ユダヤ主義的・人種差別的とされる発言の疑惑によって、ガリアーノはディオールから解雇された。
舞台の華やかさと、それを支えていた人物の破綻が、同じメゾンの名の下で起きた。

なお、この華やかな時代の隣で、もう一つの采配が進んでいた。
2001年、イヴ・サンローラン出身のエディ・スリマン(Hedi Slimane)が新設のメンズラインを担うために迎えられている。
女性の身体で名を成したメゾンが、男の服にも本格的に手を伸ばした瞬間だった。

— 要点 —
– ガリアーノは1996年就任、オートクチュールをスペクタクル化した
– 1998年春夏オートクチュールはオペラ・ガルニエで開催
– 2001年、エディ・スリマンがメンズラインを担当
– 2011年、差別発言疑惑で解雇された

オートクチュールのスペクタクル化と、栄光の裏で起きた破綻の両義性を理解させる

第6章 ラフ・シモンズ(Raf Simons)期 — ミニマリストが向き合った創業者の庭

ガリアーノの過剰の後に来たのは、静けさだった。

ラフ・シモンズ(Raf Simons)は2012年4月にウィメンズウェアを任され、同年9月に最初のプレタポルテを発表する。
2013年春夏オートクチュールは、クリスチャン・ディオール本人の庭園と花への愛に着想した。
2014年秋冬の「シティ・ライツ(City Lights)」は都会で働く女性をテーマにし、同年秋冬オートクチュールはマリー・アントワネットと花々に触発された。

創業者のアーカイブと自身のミニマリズムをどう接続するか。
その緊張が3年半続き、2015年10月に退任する。

— 要点 —
– シモンズは2012〜2015年、3年半率いた
– 2013年春夏オートクチュールは創業者の庭と花に着想

創業者のアーカイブとミニマリズムの緊張、庭園というDNAを理解させる

第7章 マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)期 — 初の女性ディレクターとフェミニズムの旗

このメゾンを初めて率いた女性が、キウリだった。

マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)は2016年7月にアーティスティックディレクターに就任する。
同年9月30日のデビューコレクションでは、「We Should All Be Feminists」のスローガンを掲げたTシャツと、フェンシングのユニフォームに着想したルックを見せた。
女性の身体を劇的に再構築したメゾンが、女性の言葉を服に載せた瞬間だった。

もっとも、そのメッセージがラグジュアリー価格のTシャツに刷られて売られたことには、「フェミニズムを商品にした」という批判もつきまとった。
旗印そのものが商品になる矛盾は、以後も消えない。

2020年秋冬オートクチュールでは、リー・ミラー(Lee Miller)、ドラ・マール(Dora Maar)、ジャクリーヌ・ランバ(Jacqueline Lamba)らシュルレアリスムの作家に触発された。
芸術との連続性という創業以来のDNAが、女性作家の視点で更新された。

— 要点 —
– キウリは2016年就任、ディオール初の女性ディレクター
– デビューでフェミニズムのスローガンTシャツを掲げた
– そのTシャツには「フェミニズムの商品化」という批判もついた

女性の言葉を服に載せた瞬間と、そのメッセージが商品化される矛盾を理解させる

不変の核(ブランドDNA)

ディオールの核は、女性の身体を劇的に再構築することと、布を惜しまない贅の思想にある。

丸みを帯びた肩、絞られたウエスト、豊かなスカート。
この造形は1947年のニュールックで確立され、以後の後継者たちも参照し続けてきた。
もう一つの軸は、芸術との連続性だ。
画商だった創業者は絵画とともに歩み、後年のシモンズは庭園を、キウリはシュルレアリスムを服に翻訳した。

そして最も特徴的なのが、後継者の個性を許容する襲名的なディレクター制度である。
サンローランからキウリまで、それぞれが自分の思想を「Dior」の名に載せて交代してきた。
創業者不在で稼働し続ける「思想の器」——それがこのメゾンの正体に近い。

矛盾・批評:解放の服は、同時に束縛だったのか

ニュールックは「女性を解放した」と讃えられ、同時に「女性を再び布で縛った」とも批判され続けてきた。

戦時下の統制で、女性の服は簡素で機能一辺倒になっていた。
ニュールックはそこに優雅さと豊かさを取り戻したとされる。
だが、あの豊かなスカートには大量の布が要る。
物資がまだ足りない時代に、それは耐乏への逆行という贅でもあった。
「女性のための優雅さ」を掲げながら、動きにくい造形へ身体を戻したという見方も消えていない。

もう一つの矛盾は、資本の側にある。
個人の名と美学を掲げたメゾンが、今や巨大資本に完全に組み込まれている。
ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)は1984年にディオールを擁するブサックグループを買収し、2017年にはLVMHが約121億ユーロでクリスチャン・ディオール クチュールを完全に傘下へ収めた。
香水部門は1960年代からLVMHが所有している。
個人の美学が、匿名的なコングロマリットの中核へ収斂していく——この矛盾を抱えたまま、メゾンは動き続けている。

よくある誤解

「ニュールック」はディオール本人が名付けた — これは違う。
名付け親はハーパーズ・バザー編集長カーメル・スノウである。
ディオール自身がラインに付けた名は「コロール」と「ユイット」だった。

ディオールは若い頃から一貫してデザイナーを志していた — 実際は外交官志望から画商へ進み、結核療養中に初めてファッションのスケッチを始めた遅咲きだ。

ディオールは長年メゾンを率いた創業者だ — 開業は1946年、死去は1957年。
本人が主導したのは約10年にすぎない。
後任のボアンが約30年でこれを上回る。

サンローランは独立独歩で世に出た — キャリアの出発点は21歳でのディオール継承だった。

ディオールは今も独立した老舗として自立している — クリスチャン・ディオール クチュールはLVMHの子会社である。

神話と、その裏側

「1947年、ニュールックが一夜にしてパリを再びモードの中心へ据えた」——これはよく語られる神話だ。

たしかに戦後パリの威信回復に果たした役割は大きい。
ただ、この物語は二つの事実を隠しがちだ。
ひとつは、革命の呼び名が本人ではなく編集者から出たこと。
もうひとつは、贅沢を可能にしたのが実業家ブサックの資本であり、香水やライセンスというビジネスの型が最初から組み込まれていたことだ。
神話の裏には、芸術と同じだけ資本の物語がある。

こぼれ話

ディオールが扱った画家の名を並べると、そのままモダンアートの名鑑になる。
1928年に開いた画廊では、ピカソ、ブラック、マティス、ダリ、マックス・ジャコブ(Max Jacob)の作品が並んだ。
服より先に、彼は前衛芸術の目利きだった。

歴代デザイナーの記録は、意外なほど揺れている。
ガリアーノの在任は「14年」とも「15年」とも記され、創業時の初期資本は「600万フラン」と「6000万フラン」、従業員数も「80人」「85人」で食い違う。
パリ移住年すら1910年と1911年で分かれる。
1950年代オートクチュールの「ビッグフォー」を誰と数えるかも資料次第で、ディオール、ジャック・ファット(Jacques Fath)、ピエール・バルマン(Pierre Balmain)に、四人目をジャン・デセ(Jean Dessès)とする説もあればユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)とする説もある。
それでも四人目が誰であれ、一人目は揺るがない。
同時代の名だたる競合の中で、ディオールの突出だけは資料を問わず一致している。

そして2001年、ディオールを最も象徴するクリスチャン・ディオール クチュールの売上は、LVMH全体のわずか2%にすぎなかった。

この2%を、それでもLVMHは2017年に121億ユーロを投じて完全に手に入れた。
なぜか。
答えは、クチュールが直接稼ぐ額ではなく、それが放つ光にある。
ニュールックの名で築かれた威信は、香水やライセンス、バッグやアクセサリーへと波及し、はるかに大きな売上を生む。
イメージの中核と収益の規模は別物であり、そして中核こそが規模を動かす燃料だった。
アルノーが買ったのは、2%の売上ではなく、それが引き連れる残り全部だったのだ。

行き着く上位概念

ディオールは、失われた優雅さを取り戻すという復興(Reconstruction)の使命から始まった。
だがその物語は、豊かさ(Luxury)が解放なのか束縛なのかという問いを常に抱え込んでいる。

女性らしさ(Femininity)の再構築、創業者不在でも続くアイデンティティ(Identity)、そして後継者が名を継いでいく襲名(Succession)。
ディオールという一つのメゾンが、これらの概念すべての交差点に立っている。

冒頭で開けたままにした問いに戻ろう。
1947年、大量の布を使ったあのバー・スーツは、女性に優雅さを返したのか、それとも動きにくい造形へ戻したのか。
物資統制下でボリュームのあるスカートを翻したその一着は、今も解放とも束縛とも決めきれない。
だからこそ、キウリのフェミニズムTシャツに至るまで、後継者はそれぞれの時代の言葉でこの問いを更新し続けてきた。
ディオールは、答えの出ない問いを着せ替えるための器なのだ。

FAQ

「ニュールック」という名前は誰が付けたのですか?

ディオール本人ではなく、ハーパーズ・バザー編集長カーメル・スノウです。
1947年の最初のコレクションを見て発した言葉が、そのまま定着しました。
ディオール自身がラインに付けた名は「コロール」と「ユイット」でした。

クリスチャン・ディオールはどのくらいの期間メゾンを率いたのですか?

約10年です。
クチュールメゾンの開業は1946年12月、本人の死去は1957年10月でした。
後任のマルク・ボアンは約30年在籍し、創業者本人より長く務めています。

ディオールは今どこの会社が所有していますか?

LVMHです。
クリスチャン・ディオール クチュールはLVMHの子会社で、香水部門は1960年代から同グループが所有しています。
2017年にはLVMHが約121億ユーロでクリスチャン・ディオールを完全に傘下へ収めました。

ディオールの歴代クリエイティブディレクターは誰ですか?

創業者クリスチャン・ディオールの死後、イヴ・サンローラン、マルク・ボアン、ジャンフランコ・フェレ、ジョン・ガリアーノ、ラフ・シモンズ、マリア・グラツィア・キウリが務めてきました。
キウリは2016年就任のメゾン初の女性ディレクターです。
メンズは2001年にエディ・スリマンが新ラインを担いました。

なぜニュールックは批判もされたのですか?

豊かなスカートに大量の布を要したためです。
戦後の物資統制がまだ続くなか、それは耐乏への逆行という贅沢でもありました。
「女性のための優雅さ」を掲げながら、動きにくい造形へ女性を戻したという批判も残っています。

この記事について

本記事は、公開されている一次情報を多言語で収集し、記述ごとに出典と突き合わせて検証したうえで執筆しています。裏が取れなかった事項は断定せず、資料が食い違う点は両論を併記します。編集部の二段階の査読(事実の正確性/編集としての品位)を経て公開しています。

執筆・編集:REPOSITORY ONE 編集部