【Louis Vuitton|Nicolas Ghesquière期】豪奢を脱いだメゾンが、服そのもので旅を語り直した10年

2026.09.03 Louis Vuitton 編集部
物(トランク)が語ってきた旅の思想が、服=身体の被覆へと翻訳される十年の主題を象徴として掴ませる

ルーブルの中庭に白いメリーゴーランドが回り、モデルたちが白馬に乗って現れた——マルク・ジェイコブス(Marc Jacobs)が16年かけて到達したのは、そういう「見せ物としてのルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)」だった。
2013年、その席を継いだニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquière)が最初にやったのは、その豪奢を脱ぐことである。
派手なセットも巨大な仕掛けも減った。
だが、これは退行ではない。
トランクという「物」が語ってきた旅の思想を、服という身体の被覆へ翻訳し直す——それがジェスキエール期の十年だった。

削った、と書いた。
では何を残したのか。
まずはそこから確かめたい。

継いだのは玉座ではなく、片づけるべき舞台装置だった

ジェスキエールが引き受けたのは完成された王国であり、同時に片づけるべき舞台でもあった。

ジェイコブスは1997年に就任し、その年の3月、このメゾンにとって初のメンズ・ウィメンズのプレタポルテを発表した。
革製品の会社を、時代を定義する現象へと作り替えた人物である。
モノグラムをヴェルニに、デニムに、ミロワールのメタリックに変奏し、スティーヴン・スプラウス(Stephen Sprouse)のグラフィティ、村上隆のマルチカラー、リチャード・プリンス(Richard Prince)、草間彌生を次々に招き入れた。
ラグジュアリーと現代美術を溶かし合わせた立役者だ。

その集大成が、2013年の最終コレクションだった。

舞台には過去のショーの豪華なセットが総動員された。
リフトシャフト、メリーゴーランド、エスカレーター、噴水、駅の時計。
オープニングはスプラウスのグラフィティが透けるボディストッキングをまとったイーディ・キャンベル(Edie Campbell)、フィナーレにはケイト・モス(Kate Moss)とマリアカルラ・ボスコノ(Mariacarla Boscono)。
全体は黒で統一されていた。
過去を全部並べて、黒く閉じる。
見事な幕引きだった。

だからこそ、後任は難しい。
この豪奢を続ければ模倣になり、否定すれば伝統の否定に見える。
ジェスキエールはどちらも選ばなかった。

Marc Jacobs期の集大成である豪奢な舞台装置と、それを片づけねばならなかった継承の重さを理解させる

デビューは、スタジオで働く女性たちの日常から始まった

2014年秋冬。
ジェスキエールの最初のコレクションは、前任と比べて明らかに簡素だった。

インスピレーションの源が、そもそも違う。
彼が引いてきたのは、自身のスタジオで働く女性たちが、日常で着たいと思う服だった。
メリーゴーランドではない。
白馬でもない。
アトリエの床を歩く現実の身体である。
この一点が、以後の十年の性格をほぼ決めている。

シルエットはアースカラーの60年代風。
抑えた色調、実際に着られる比率。
ここで多くの人が「地味になった」と受け取った。
たしかに、ショーの派手さという物差しで測れば後退に見える。
ただ、測る物差しのほうが間違っていたのだと思う。

ジェスキエールがやっていたのは、アヴァンギャルドなピースと時代を超えたエレガンスを重ね合わせる作業だった。
前衛と普遍。
ふつうは相反するこの二つを同じ一着に同居させる——それが彼の独自の言語であり、彼はこのメゾンで新たにそれを確立した。

派手を捨てたのではない。
派手が担っていた仕事を、服の構造そのものに肩代わりさせたのだ。

白馬やメリーゴーランドではなく、アトリエの床を歩く現実の身体が発想源になったという転換を理解させる

Petite Malle——旅の「物」が、服の側へ渡された

ここに、ジェスキエール期を象徴する一つの物がある。
プティット・マル(Petite Malle)だ。

小型のトランクである。
1858年に平らな蓋のトランクで積み重ねと軽量と防水を実現し、移動という近代の合理に応えた、あの原点のトランク。
それを縮め、身につけられる寸法にまで翻訳したのがプティット・マルだった。
硬い蓋の輪郭、金具、角の処理——トランクの記憶がそのまま手のひらに乗る。

新しい「イット」バッグとして、これは注目を集めた。

見落としてはならないのは、これが単なる懐古ではないことだ。
旅を語ってきたのは、長らくトランクという移動の道具だった。
それが、動かない都市で身にまとう記号へと形を変える。
プティット・マルは、その変質を最も正直に体現した物である。
旅の思想が、運ぶ物から着る物へと橋を架ける——その橋の名がプティット・マルだった。

もっとも、これは危うい橋でもある。
旅の道具から出発したモノグラムが、いまや動かない街角の地位の記号として消費されているのと同じ皮肉が、ここにも畳み込まれている。
旅を語る物が、旅しない人の記号になる。
この矛盾は、ジェスキエールが解いたというより、引き受けて服の上に載せ替えたのだと言うべきだろう。

1858年の平蓋トランクの記憶が手のひらサイズに翻訳され、運ぶ物から着る記号へ橋が架かる矛盾を理解させる

2019年秋冬——ルーブルに、ポンピドゥーが建った

簡素を掲げた男が、では派手を完全に捨てたのか。
そうではなかった。

2019年秋冬コレクション。
会場はルーブル美術館。
だが、その中に組まれたセットはポンピドゥー・センターを模したものだった。
パイプがむき出しの、あの機能を露出させた建築。
美の殿堂の中に、機能主義の記念碑を建てる。
この配置がすでに一つの主張だ。

服が参照したのは、ポンピドゥー周辺のエリアの気配だった。
80年代、サブカルチャー、そしてソーシャルメディア。
時代がここで一気に現在へ引き寄せられる。

  • 80年代由来の広く張ったショルダー
  • フリルのついたドレスとブラウス
  • ダブルデニムのジャンプスーツ
  • 大ぶりのステートメント・アクセサリー
  • 端正なレザーハット

肩の誇張は、80年代という時代そのものの身振りだ。
フリルは前衛と装飾のあいだで揺れる。
ジャンプスーツは日常着の記憶を引きずり、レザーハットは職人の手仕事を静かに思い出させる。
派手を捨てたはずのメゾンが、ここでは記号をむしろ増幅している。

矛盾しているように見える。
だが、2014年に彼が立てた原則を思えば筋は通っている。
土台は、着られる服だ。
その上に、80年代でもサブカルチャーでもSNSでも、時代の記号を載せていく。
前衛と普遍を重ねるという最初の宣言が、五年後にこの形で結実した。

美の殿堂に機能の建築を持ち込んだこの一夜は、旅の思想を服で語り直すという十年の企ての、最も雄弁な一場面だった。

削ぎ落としの正体——旅を、身体の側へ移すこと

ここまでの話を「ジェスキエールはショーを地味にした人だ」と読まれると、それは違う。

彼が削ったのは、豪奢そのものではなかった。
旅の主語を、物から身体へ移したのだ。
トランクが運んでいた移動の物語を、服が着る人の身体に負わせる。
プティット・マルは物と身体の中間にあり、2019年のコレクションは記号をまとった身体の側に旅を託した。

このメゾンの核はずっと「旅(voyage)」だった。
歩いてパリを目指した少年が、皇后のトランク職人になり、移動の常識を書き換えた。
その神話の主語は、いつも道具だった。
ジェスキエールはそれを、初めて服の側に引き受けさせた人物である。

外部の才能を招いて自らを更新するのが、このメゾンの宿命だ。
ジェイコブスはアートを、後年ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)はストリートと人種の地平を、ファレル・ウィリアムス(Pharrell Williams)は音楽と出自の物語を持ち込んだ。
そのなかでジェスキエールが持ち込んだのは、外の素材ではない。
自分のスタジオで働く女性の、日常という最も内側の視点だった。

白馬もメリーゴーランドも消えた。
残ったのは、床を歩く現実の身体である。
旅を語る道具だったメゾンが、旅する身体そのものを主役に据え直した——豪奢を脱いだ十年とは、そういう語り直しだった。

FAQ

ジェスキエールの「簡素化」は、ブランドの格下げではなかったのか?

見た目のスペクタクルは確かに減った。
だがそれは、派手さが担っていた役割を服の構造とシルエットに移す作業だった。
アヴァンギャルドと時代を超えたエレガンスを一着に重ねる彼独自の言語は、豪奢を脱いだからこそ成立している。

プティット・マルはなぜ重要なのか?

小型トランクを身につけられる寸法に翻訳したバッグであり、旅を語ってきた「物」が「着る記号」へ渡される瞬間を最も正直に体現しているからだ。
トランクから服へという十年のテーマが、この一つの物に凝縮されている。

2019年秋冬でルーブルにポンピドゥーを模したのはなぜか?

ポンピドゥー・センター周辺の街の気配——80年代、サブカルチャー、ソーシャルメディア——をコレクションが参照したためだ。
美の殿堂に機能主義の建築を持ち込む配置自体が、機能から出発したこのメゾンの出自と現在を重ねる一つの主張になっている。

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