【ヴェルサーチェ|ドナテラ・ヴェルサーチェ期】兄の死から継いだメゾンを27年率いた、「過剰」の継承者という宿命

2026.10.21 Versace 編集部
ミラノの禁欲的ミニマリズムに抗して、露出・金色・バロック・ポップを恥じらいなく掲げた『やりすぎ』こそがヴェルサーチェの核であることを理解させる

ミューズと批評家。
1997年までのドナテラ・ヴェルサーチェ(Donatella Versace)に与えられていた役回りは、せいぜいそれだった。
だが兄ジャンニ(Gianni Versace)が自宅の門前で射殺された夏以降、彼女は創業家の思想体そのものを背負うことになる。
結論を先に言う。
ドナテラの27年は、兄から受け継いだ「過剰(excess)」という遺伝子を、一度も薄めずに守り抜いた継承の記録であり、同時にその過剰が資本に売買される商品へと姿を変えていく過程の記録でもあった。

彼女は何を引き継ぎ、何を足したのか。
まずはそこから確かめていく。

兄が残したのは「やりすぎ」という遺伝子だった

ドナテラが継いだのは、慎みを拒む美学である。

ジャンニ・ヴェルサーチェは1978年、ミラノに自身のメゾンを立ち上げた。
兄サント(Santo Versace)が経営を、妹ドナテラがイメージを支える家族経営の体制だった。
レッジョ・カラブリアの仕立て屋の母のもとに育ち、古代ギリシャ・ローマの遺産とバロックの装飾、地中海の鮮烈な色彩、そしてポップカルチャーを、恥じらいなく一枚の服に盛りつけた。

メゾンの紋章はメドゥーサ。
故郷の古代遺跡で遊んだ少年が、地面に刻まれたその図像に魅入られたという起源譚が、広く語られてきた。
見た者を石に変える怪物――つまり、見られることそのものを美学に据えた選択である。

この姿勢は、当時のミラノでは異物だった。

ジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani)、ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)と並んで「ミラノの3G」と呼ばれた一人でありながら、ジャンニの方向は彼らと真逆だった。
贅沢を品よく抑え込む「良趣味」が称賛される北イタリアの空気のなかで、彼は露出と金色とバロック装飾を正面から掲げた。
1982年には軽量のチェーンメイル素材「Oroton」を開発し、金属を布のように身体へまとわせた。
装飾を引き算するのが洗練だとされた時代に、足し算を貫いた。

そして祝祭。
ナオミ・キャンベル、リンダ・エヴァンジェリスタ、シンディ・クロフォード、クラウディア・シファー――キャンペーンのモデルたちを1991年秋冬のショーでランウェイに立たせ、「スーパーモデル」という時代の偶像を生んだ。
1994年、エリザベス・ハーレイが黒い「セーフティピン・ドレス」をまとって映画のプレミアに現れたとき、一着の服が世界的な話題として消費される回路が完成した。

これが、ドナテラの手に渡った遺産である。
メドゥーサ、バロック、露出、そしてセレブリティの祝祭。
どれも「やりすぎ」を核に持つ。

問題は、そのやりすぎを、カリスマの死後に誰が担保できるのかということだった。

1997年7月15日、ミューズが「責任者」になった

継承は、準備のないまま始まった。

1997年7月15日の朝、ジャンニ・ヴェルサーチェはマイアミビーチの自宅カーサ・カスアリーナの門を開けようとして、連続殺人犯アンドリュー・クナナンに撃たれて亡くなった。
50歳だった。
突然の終幕は、メゾンに悲劇と不死のアウラを与えた。
だが現実の問題として、クリエイティブディレクターの椅子が空いた。

そこに座ったのが、ドナテラだった。

彼女はフィレンツェ大学で文学と言語を学び、兄のもとで週末ごとにスタイリングやアクセサリー、靴、バッグのデザインに関わってきた。
すでに1989年には、ジャンニから「贈り物」として若者向けのディフュージョンライン「Versus」を託され、1993年にはキッズラインの「Young Versace」を立ち上げている。
無名の素人ではない。

それでも、彼女の肩書きはあくまで兄の傍らにある補佐だった。
メゾン全体の思想を一身に体現する役回りとは、意味が違う。

ここで足を止めたい。
継承にまつわる逸話を、ひとつだけ添えておかねばならない。

ドナテラはジャンニの死後、18年にわたって薬物依存に苦しんだと本人が明かしている。
兄を失った悲しみと、巨大なメゾンを背負う重圧。
カリスマの個人的資質に強く依存した思想体を継ぐとは、そういうことだった。
彼女は後にリハビリ施設に入り、立て直す。
だがこの事実は、「兄の遺産を守り抜いた」という物語が、どれほど個人的な代償の上に成り立っていたかを静かに告げている。

では、彼女はただ兄を守っただけの人だったのか。
そう読むと、肝心の数字を見落とす。

創業者の突然の死によって、準備なきまま補佐役の妹が思想体全体を背負うことになった継承の重圧と悲劇性を理解させる

グリーンのドレス一着が、継承者を主役に変えた

ドナテラが継承者から主役へ転じた瞬間には、はっきりした日付がある。
2000年2月23日である。

第42回グラミー賞のレッドカーペットに、ジェニファー・ロペス(Jennifer Lopez)が現れた。
胸元とへそのはるか下まで深く開いたグリーンのジャングルプリント――ドナテラがデザインしたヴェルサーチェのドレスだった。
露出を隠さず、身体の官能を全開にするカッティング。
まさしく兄から受け継いだ遺伝子そのものが、新しい身体の上で甦っていた。

メディアは席巻された。
この一着が、ドナテラのキャリアの転換点になった。

さらに語り継がれる逸話がある。
あまりに多くの人がこのドレスの画像を探したため、Googleの共同創業者ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが、ユーザーが画像を見つけられるようGoogle画像検索を開発する契機になった――そう言われている。
真偽の断定は避けるが、一着のドレスがインターネットの基盤機能の誕生譚に組み込まれたという事実そのものが、ファッションと大衆の欲望が結びつく力を物語る。

ここで足場を打っておく。
J.Loのドレスは、兄のDNAをドナテラが正しく継いだ証明であると同時に、彼女が何を足したかの証明でもあった。

足したものは、官能性である。

ジャンニの過剰がバロックの装飾と祝祭の派手さに宿っていたとすれば、ドナテラはそこへ、身体の欲望をより露わにする官能の次元を重ねた。
派手なプリント、多少やりすぎと見える豪奢さ――その輪郭は守りつつ、セクシュアリティの濃度を上げた。
そして、その力でメゾンを拡大させていく。

守ることと、拡げること。
この二つを同時にやろうとしたとき、ひとつの矛盾が立ち上がる。

J.Loのジャングルプリントのドレスが、兄のDNAを継いだ証明であると同時にドナテラが官能性を足した証明であり、一着がテクノロジーと欲望を動かした瞬間だと理解させる

「手の届くヴェルサーチェ」という賭け

反抗的な官能を売るメゾンが、大衆に手を伸ばす――それが成立するのか。
ドナテラは成立させようとした。

2009年、世界不況のなかでヴェルサーチェは日本市場から一時撤退している。
同じ年、彼女はディフュージョンライン「Versus」の復活をクリストファー・ケイン(Christopher Kane)に依頼した。
兄がかつて自分への贈り物として立ち上げたラインを、若い才能に託して甦らせたわけだ。

そして2011年、「VERSACE for H&M」が発表された。

これは小さな出来事ではない。
ゴージャスな大人のラグジュアリーというイメージを長く守ってきたメゾンが、ファストファッションと組み、「手の届く」存在へと一歩踏み出した。
従来のブランドイメージを、自ら変えにいったのである。

同じ2011年、経営体制を刷新して日本市場に再上陸。
2015年には銀座と青山に旗艦店を構え、銀座には日本初の「VERSACE HOME」も開いた。
2022年には銀座の主要店が340平方メートルの規模で、国内最大級の品揃えを持つ店舗として生まれ変わっている。
2021年には俳優の清野菜名が初の日本アンバサダーに就任した。

拡大は、確かに成功した。
だが、この成功が同時に矛盾を深める。

「過剰・自由・欲望の肯定」を掲げる思想体が、大衆コラボで間口を広げ、拡大の果てに巨大資本の対象になっていく。
2018年、ヴェルサーチェはカプリ・ホールディングス(Capri Holdings、旧マイケル・コース・ホールディングス)に21億ドルで買収された。
創業家が率いる反抗的な官能のメゾンは、売買される商品そのものへと輪郭を変えていった。
カプリ傘下でも、ドナテラはクリエイティブディレクターの座に残り続けた。

もっとも、この拡大を「堕落」と読むと、話を単純にしすぎる。
ジャンニの時代から、ヴェルサーチェはファッションをエンターテインメントの中心へ引き入れ、大衆の欲望を動かすことで生きてきた。
大衆へ手を伸ばすのは、裏切りというより、むしろ遺伝子の発露だったとも言える。
問題はその先にあった。

反抗的な官能を売るラグジュアリーが大衆コラボと資本拡大で『手の届く』商品へ姿を変える、肯定と商品化の矛盾を理解させる

27年の末尾で、思想体は誰のものになるのか

継承者が去った後、「ヴェルサーチェ的過剰さ」を誰が定義するのか。
これは今なお開いたままの問いである。

2025年3月13日、ドナテラはチーフクリエイティブオフィサーの退任を発表した。
4月1日付でチーフブランドアンバサダーに就き、メゾンの慈善活動を主導し、世界規模でブランドを擁護する立場へ移る。
創業家の一員が、服を作る責任者ではなくなった。

後任には、元Miu Miuのデザイン・イメージディレクター、ダリオ・ヴィターレ(Dario Vitale)が就任した。
だが彼は2025年9月に2026年春夏コレクションを発表した後、就任から1年を待たずに12月の退任を表明する。

そして資本も動いた。

プラダ・グループ(Prada Group)が、カプリ・ホールディングスからヴェルサーチェを買収する。
買収の時期については、2025年4月に買収したとする情報と、2025年12月2日に完了したとする情報があり、ここは両論が並んだままだ。
いずれにせよ、メドゥーサを冠した思想体は、ひとつの巨大資本から別の巨大資本へと移った。

2026年2月5日、新たなチーフクリエイティブオフィサーとしてピーター・ミュリエ(Pieter Mulier)の任命が発表された。
就任は同年7月1日付。
ラフ・シモンズ(Raf Simons)、ジル・サンダー(Jil Sander)、ディオール(Dior)、カルバン・クライン(Calvin Klein)、そしてアライア(ALAÏA)でデザインと建築を学び、率いてきた人物である。

ここに、この物語の核心がある。

創業者個人のカリスマに強く依存した思想体が、妹という血縁によってかろうじて連続性を保ってきた。
その血縁が服作りの現場から退いたいま、ヴェルサーチェの「やりすぎ」は、創業家の外から来た手によって再定義されようとしている。
アレグラ・ヴェルサーチェ・ベックが叔父ジャンニの株式を相続して支配株主になっている事実は残る。
だが、紋章のメドゥーサに新しい視線を与えるのは、もはや家族ではない。

「過剰であること、欲望を隠さないこと」は、下品ではなく一つの思想たりうるか。
ジャンニが問い、ドナテラが27年かけて体現し続けたこの問いは、答えが出たのではなく、別の手に委ねられただけなのかもしれない。

グリーンのドレスを探して世界中が検索窓を叩いたあの夜、動いていたのは一人のデザイナーの欲望ではなかった。
見られたいという欲望と、見たいという欲望。
その二つが交わる場所に、ヴェルサーチェはずっと立っていた。
継承者が舞台から降りたいま、その交点に誰が立つのか――石に変えられる覚悟のある者だけが、そこに立てる。

FAQ

ドナテラ・ヴェルサーチェはいつクリエイティブディレクターを退任したのですか?

2025年3月13日にチーフクリエイティブオフィサーの退任を発表し、4月1日付でチーフブランドアンバサダーに就任しました。
この役割では、メゾンの慈善・チャリティ活動を主導し、世界規模でブランドを擁護します。
服作りの責任者ではなくなりましたが、メゾンを離れたわけではありません。

J.LoのグリーンのドレスがGoogle画像検索を生んだというのは本当ですか?

あまりに多くの人がこのドレスの画像を探したことが、Googleの創業者による画像検索開発の契機になった――と語り継がれています。
逸話として広く共有されているもので、ここでは断定はしません。
ただ、一着のドレスが大衆の欲望とテクノロジーを同時に動かした象徴として、繰り返し引かれてきたのは確かです。

ドナテラは兄ジャンニから何を変え、何を守ったのですか?

守ったのは、メドゥーサ、バロックの装飾、大胆な露出、そしてスーパーモデルとセレブリティの祝祭という「やりすぎ」の核です。
足したのは官能性で、その濃度を上げながらメゾンを拡大させました。
2011年のH&Mコラボによるイメージの転換や、カプリ傘下入りによる規模の拡大が、その方向を象徴しています。

次に読む

このブランド 【徹底ブランド解説】知られざるヴェルサーチェ(Versace)の歴史|メドゥーサに魅入られた、過剰という名の美学

Versace の記事