【徹底ブランド解説】知られざるヴァレンティノ(Valentino)の歴史|一色の赤が、制度になるまで

2026.10.04 Valentino 通史 編集部
一色の赤が装飾ではなく思想として制度化される、というメゾンの中心的な問いを掴ませる

ヴァレンティノ(Valentino)は、1960年にヴァレンティノ・ガラヴァーニ(Valentino Garavani)とジャンカルロ・ジャメッティ(Giancarlo Giammetti)が創業したイタリアのメゾンで、「ヴァレンティノ・レッド」と呼ばれる一色の赤を代名詞とするクチュールの名門だ。

赤で名を成したメゾンが、人気を決定づけたのは「色のない」コレクションだった——この矛盾が、ヴァレンティノを読み解く入口になる。
そして、ローマの職人文化を掲げながら、所有はカタール王室からフランスの資本へと移っていく。
土地と手仕事の物語が、国境を越える金融の論理とどう同居しているのか。
そこが、最後まで引っかかる。

History

第1章 ヴァレンティノ・ガラヴァーニ(Valentino Garavani)期 — ローマで始まり、赤と無彩色で名を成した半世紀

ヴァレンティノ・ガラヴァーニは1932年5月11日、北イタリア・ロンバルディア州のヴォゲーラ(Voghera)で生まれた。
ローマ生まれの生粋のローマ人、というイメージが強いが、出自も修業も違う。
母テレサ(Teresa de Biaggi)が、無声映画の二枚目俳優ルドルフ・ヴァレンチノ(Rudolph Valentino)にちなんで名付けた、と広く語られている。
情熱と優雅さの物語として語られる逸話だ。

修業の中心はローマではなくパリだった。
ガラヴァーニはパリの美術学校エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)と、クチュールの職人組合シャンブル・サンディカル(Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)で学び、ジャン・デセ(Jean Dessès)とギ・ラロッシュ(Guy Laroche)のもとでキャリアを始めた。
フランスで仕込まれた技術を携えて、ローマに戻る。

1959年、ガラヴァーニはローマの高級通りヴィア・コンドッティ(Via Condotti)に最初のアトリエを構えた。
そして同年の最初の春夏コレクション、「ラ・フィエスタ(La Fiesta)」のドレスとともに、あの赤が登場する。
ヴァレンティノ・レッドだ。
代名詞の赤が1960年代に確立されたと思われがちだが、起点はこの1959年にある。

翌1960年、ジャメッティとともにメゾン・ヴァレンティノを正式に創業した。
1962年にはフィレンツェのピッティ宮殿(Pitti Palace)で国際デビューを果たす。

名を決定づけたのは、赤ではなかった。
1967年、白・ベージュ・アイボリーだけで構成された「no colour(無彩色)」コレクションで、ヴァレンティノは大きな人気を得る(発表年は1967年説と1968年説がある)。
翌1968年1月には「White Collection」が披露された。
色で名を成したメゾンが、色の不在で評価された。
この両義性こそ、ヴァレンティノの美意識の核にある。

同じ1967年、あのVのロゴが導入されたとされる。
赤と、無彩色と、記号。
ブランドのDNAがこの数年に出揃った。

メゾンは拡張していく。
1978年には初のフレグランス「Valentino」を発売し(1983年とする資料もある)、1985年にはミラノ・ファッション・ウィークで初のメンズショーを開いた。
ガラヴァーニ個人への栄誉も重なる。
イタリア共和国功労勲章のグランクロス(1986年)、労働功労勲章(1996年)、フランスのレジオンドヌール勲章と芸術文化勲章コマンドゥール、パリ市名誉賞。
ローマの優雅さを体現する男として、国家が勲章を授けた。

その一方で、会社の所有は早くから揺れていた。
1998年、ガラヴァーニとジャメッティはメゾンを約3億ドルでイタリアの複合企業HdPに売却する。
HdPは2002年、2億1000万ドルでマルゾット・アパレル(Marzotto Apparel)へと手放した。
創業者はクリエイティブの座に残ったが、会社そのものはすでに資本の手に渡っていた。

ガラヴァーニは2007年まで創業者兼クリエイティブディレクターを務めた(退任時期は2007年説と2008年説がある)。
半世紀近く、自分の名を冠したメゾンを率い続けた末の幕引きだった。

— 要点 —
– 1932年ヴォゲーラ生まれ、修業の中心はローマではなくパリ
– 1959年「La Fiesta」でValentino Redが誕生、起点は創業以前
– 1967年の無彩色コレクションで人気を決定づけ、Vロゴも同年導入
– 会社は1998年HdP、2002年Marzottoへと早くから売却されていた

パリで修業しローマで開花した出自と、赤と無彩色の両義で名を成した半世紀を理解させる

第2章 アレッサンドラ・ファッキネッティ(Alessandra Facchinetti)期 — 創業者の後をすぐ継いだ短い政権

ガラヴァーニの引退後、デザイナーを引き継いだのはアレッサンドラ・ファッキネッティ(Alessandra Facchinetti)だった。
ここは誤解されやすい。
創業者が退いてすぐにチウリとピッチョーリが跡を継いだわけではない。
間に、この短い政権がある。

創業者個人のカリスマに依存しきったメゾンが、その人物を失った直後にどう進むか。
ファッキネッティの時期は、その最初の試験だった。

— 要点 —
– ガラヴァーニ引退直後の後任はファッキネッティ
– 「すぐPiccioliが継いだ」は誤解で、間に短い政権がある

創業者喪失直後の短い過渡期の存在と、カリスマ依存メゾンの最初の試練を理解させる

第3章 マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)&ピエルパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)期 — 二人体制が生んだRockstud

2008年から2016年まで、マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)とピエルパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)が共同クリエイティブディレクターを務めた。
創業者の名を冠したメゾンを、二人の手で引き継ぐ体制だ。

この時期の最大の発明が、2010年秋冬コレクションで登場したロックスタッズ(Rockstud)である。
ピラミッド型の鋲を縁に並べたこのモチーフは、ヴァレンティノを現代のラグジュアリー市場で一気に押し上げた。

ここも誤解が多い。
Rockstudはピッチョーリがひとりで生み出した象徴、と語られがちだが、実際は当時の共同クリエイティブディレクター二人の発案だ。
発想の源はローマの建築にある。
石を凹凸に積む装飾技法「ブニャート(bugnato)」——ローマの街に刻まれた記憶を、ラグジュアリーの記号へと翻訳したわけだ。
ローマという都市性が、鋲の一粒に宿っている。

— 要点 —
– 2008〜2016年はChiuriとPiccioliの共同体制
– 2010年AWのRockstudは二人の発案、Piccioli単独の象徴ではない
– モチーフの源はローマの建築装飾bugnato

Rockstudが二人の共同発案であり、ローマの建築装飾bugnatoの翻訳であることを理解させる

第4章 ピエルパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)単独期 — 25年の在籍を黒で閉じた

キウリがディオール(Dior)へ去った後、2016年から2024年3月まで、ピッチョーリが単独のクリエイティブディレクターを務めた。
ヴァレンティノでの在籍は通算25年に及ぶ。
共同体制のパートナーが抜けた後も、彼はメゾンの記号を更新し続けた。

2021年の春夏ランウェイでは、古典的なスタッズを大型化したローマン・スタッズ(Roman Stud)を導入する。
Rockstudの系譜を引きながら、より大胆に、より彫刻的に。
ローマの建築的記憶という主題を、彼は手放さなかった。

そして2022年、ピッチョーリは「ピンクPP(Pink PP)」と名付けた鮮やかなピンクに、プレタポルテ・コレクションのほぼ全体を捧げた。
Valentino Redという伝統を、後継者が新しい一色で更新してみせた瞬間だ。
一色でメゾンを語る、という創業者の手法を、別の色で反復した。

Pink PPこそピッチョーリの到達点だ、と思われやすい。
だが違う。
彼の最後の仕事は、2024年秋コレクションだった。
全身が黒。
鮮烈なピンクで頂点を極めた男が、最後にすべての色を沈めた。
色の有無を問うヴァレンティノの感性が、ここでも静かに反復されている。

ピッチョーリの離脱は、メゾンに動揺をもたらした。
2024年6月に予定していたメンズとオートクチュールのショーは中止された。
25年の蓄積が抜けた穴は、簡単には埋まらなかった。

— 要点 —
– 2016〜2024年3月まで単独体制、在籍通算25年
– 2021年Roman Stud、2022年Pink PPで一色の伝統を更新
– 最後の仕事はPink PPではなく全身黒の2024年秋コレクション
– 離脱後、2024年6月のメンズ・クチュールショーは中止

一色の伝統を別の色(Pink PP)で更新しつつ、最後を全身黒で閉じた両義性を理解させる

第5章 アレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)期 — グッチを去った男が迎えた新章

ピッチョーリの後を継いだのは、アレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)である。
就任は2024年4月2日付。
グッチ(Gucci)で過剰なまでの装飾と折衷の美学を築いた人物が、ローマのメゾンにやってきた。

ここでも時間差に注意が要る。
ミケーレが来てすぐ2024年のうちに彼のコレクションが見られた、というのは誤りだ。
最初のコレクションは2025年春夏で、同年9月のパリで発表される予定とされている。
そしてミケーレは、この新たな役目で初めてクチュールコレクションを手がけることになる。

創業者個人の名を冠したメゾンが、世代交代を繰り返しながら、誰のものでもない「思想」として生き延びられるか。
その問いは、ミケーレの代でまだ閉じていない。

— 要点 —
– 就任は2024年4月2日付、グッチを率いた人物
– 初コレクションは2025年春夏、同年9月パリ発表予定
– Micheleにとって初のクチュールへの挑戦となる

折衷と過剰の美学を持つ新ディレクターが、未開のクチュールへ挑む新章の不確実性を理解させる

不変の核(ブランドDNA)

ヴァレンティノの核は、一色の赤が思想にまで高められていることにある。

その赤はヴァレンティノ・レッド。
マゼンタ100%・イエロー100%・ブラック10%という配合で作られ、Pantoneに独自の色として登録されている。
一ブランドが色見本帳に固有色を持つ——これは、色が流行や装飾ではなく、知的財産でありブランド資産になりうることを示した事実だ。

もう一つの核はローマという都市性だ。
bugnatoに着想を得たRockstud、それを大型化したRoman Stud。
ローマの建築的記憶が、繰り返しラグジュアリーの記号へと変換されていく。
クチュールの伝統と、ローマのアトリエ文化が、その土台にある。

そして、色の有無そのものを問う感性。
1967年の無彩色コレクション、2024年の全身黒。
赤に執着しながら、時に全身を白や黒に沈める。
この両義性が、ヴァレンティノを単なる「赤のブランド」から引き離している。

赤の制度化・ローマの都市性・色の有無を問う感性という三つの核を一枚で掴ませる

矛盾・批評:土地の物語と、資本の論理

ヴァレンティノには、ほどけない矛盾が二つある。

一つは色の矛盾だ。
赤を代名詞とするメゾンの人気を決定づけたのは、1967年の「色のない」無彩色コレクションだった。
色で名を成したはずが、評価されたのは色の不在で。
この逆説は欠陥ではなく、むしろヴァレンティノの感性の中心にある。
だが「赤のヴァレンティノ」という単純な像しか持たない者には、この矛盾は見えない。

もう一つは、所有の矛盾だ。
ローマの職人文化とクチュールの伝統を掲げながら、会社の所有は転々としてきた。
HdP、Marzotto、そして2012年、カタール王室系のマイフーラ・フォー・インベストメンツ(Mayhoola for Investments)が約7億ユーロ(約8.5億ドル)で買収する。
2023年にはケリング(Kering)が17億ユーロで株式30%を取得した。
合意には、ケリングが2028年もしくは2029年までに全株式を取得できるオプションが含まれている。

土地と手仕事の物語が、国境を越える金融資本の論理と同居している。
登記上の本社はミラノにあり、ローマにあるのはクリエイティブ部門と財団だ。
「徹底的にローマのメゾン」というイメージは、半分しか正しくない。

土地と手仕事の物語と、国境を越える金融資本の論理が同居する二重の矛盾を理解させる

誤解

「Rockstudはピッチョーリがひとりで生んだ」 — 違う。
2010年秋冬で登場したモチーフで、当時の共同ディレクター、キウリとピッチョーリ二人の発案だ。

「Valentino Redは1960年代に確立された」 — 違う。
1959年の最初の春夏コレクション、「La Fiesta」ドレスですでに導入されている。
創業よりも前だ。

「ガラヴァーニは生粋のローマのデザイナー」 — 違う。
1932年に北イタリアのヴォゲーラで生まれ、修業の多くはローマではなくパリで行った。

「今やフランス資本のブランド」 — 違う。
支配しているのはカタールのMayhoolaで、Keringが2023年に取得したのは30%にとどまる。
Mayhoolaが70%を保持している。

「ガラヴァーニが退いてすぐPiccioliが継いだ」 — 違う。
直後の後任はファッキネッティで、ChiuriとPiccioliの共同体制が始まるのは2008年だ。

神話と、その裏側

ヴァレンティノには、一色が制度化される神話がある。
1959年、「La Fiesta」のドレスとともにValentino Redが生まれ、それがやがてPantoneに固有色として登録されるに至った——色が個人の好みから制度へと昇格した物語だ。

もう一つ、出自の神話がある。
母テレサが無声映画の俳優ルドルフ・ヴァレンチノにちなんで名付けた、という逸話。
情熱と優雅さを宿命づけられた名、として広く語られる。
ただしこれは逸話として語られるもので、断定はできない。

神話の裏には、いつも資本の現実がある。
Pantoneに色を持つという輝かしい事実の裏で、メゾンの所有はHdP、Marzotto、Mayhoola、Keringと転々としてきた。
イタリアの名門メゾンがグローバル資本の取引対象になっていく——ヴァレンティノの歴史は、その構造そのものを映している。

こぼれ話

創業者ガラヴァーニが受けた栄誉の数は尋常ではない。
イタリアでは共和国功労勲章のグランクロスと労働功労勲章、フランスではレジオンドヌール勲章と芸術文化勲章コマンドゥール、さらにパリ市名誉賞。
二つの国が、一人の服飾家に勲章を重ねた。

現代のヴァレンティノは、メゾンの記号を大衆文化へ接続し続けている。
2026年にはなにわ男子の道枝駿佑がブランドアンバサダーに就任した。
ヴァレンティノ・レッドという記号が、俳優やミュージシャンを介して新しい世代へと手渡されていく。

行き着く上位概念

ヴァレンティノが問いかけるのは、色は装飾ではなく思想になりうるか、ということだ。

マゼンタ100%・イエロー100%・ブラック10%。
この配合がPantoneに登録された瞬間、一色はブランドの魂であると同時に、譲渡可能な資産にもなった。
Color as Identity(アイデンティティとしての色)という主題が、ここにある。

そしてもう一つ、より重い問いが残る。
創業者個人の名を冠したメゾンが、世代交代と資本の移動を繰り返しながら、誰のものでもない「思想」として生き延びられるか。
Heritage(継承される伝統)、Succession(後継)、Capital and Craft(資本と手仕事)——ヴァレンティノは、この緊張のただ中にいまも立っている。

Micheleの最初のクチュールが、その問いにどう答えるのか。
それはまだ、わからない。

FAQ

ヴァレンティノ・レッドとは何ですか?

ヴァレンティノを象徴する固有の赤で、マゼンタ100%・イエロー100%・ブラック10%の配合で作られます。
Pantoneに独自の色として登録されており、1959年の最初の春夏コレクション「La Fiesta」ドレスで初めて登場しました。

ヴァレンティノは今どこの資本が所有していますか?

カタール王室系のMayhoola for Investmentsが2012年に買収し、現在も70%を保持しています。
フランスのKeringが2023年に30%を取得し、2028年もしくは2029年までに全株式を取得できるオプションを持っています。
「フランス資本のブランド」という理解は正確ではありません。

ガラヴァーニの後、クリエイティブディレクターはどう交代しましたか?

創業者ガラヴァーニの引退後、まずアレッサンドラ・ファッキネッティが引き継ぎ、2008〜2016年はマリア・グラツィア・キウリとピエルパオロ・ピッチョーリの共同体制、2016〜2024年3月はピッチョーリの単独体制でした。
2024年4月からはアレッサンドロ・ミケーレが就任しています。

Rockstudは誰が生み出したのですか?

2010年秋冬コレクションで登場したモチーフで、当時共同クリエイティブディレクターだったキウリとピッチョーリ二人の発案です。
ピッチョーリひとりの象徴とされがちですが誤解です。
デザインはローマの建築装飾「bugnato」に着想を得ています。

ヴァレンティノの本社はローマにありますか?

登記上の本社はミラノにあります。
ローマのPalazzo Gabrielli-Mignanelliに置かれているのはクリエイティブ部門とValentino財団で、本社そのものではありません。
「徹頭徹尾ローマのメゾン」というイメージは半分だけ正しい、ということになります。

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