【ヴェルサーチェ|ピーター・ミュリエ期】Prada傘下で始まる、創業家の手を離れた「過剰」の再定義

ヴェルサーチェ(Versace)が、創業以来初めて、服の決定権を一族の外へ完全に手放す。
2026年2月5日に新チーフクリエイティブオフィサーとして任命され、7月1日付で就任するピーター・ミュリエ(Pieter Mulier)は、ヴェルサーチェ家の血を引かない最初の「過剰の管理人」になる。
問われているのは彼が何を作るかではない。
まだ作っていないからだ。
問われているのは、彼が何を引き継ぎ、何を託されたのか、である。
就任はこれからで、実作は一着もない。
だからこの記事は、ランウェイを待たずに書ける。
ミュリエが受け取る椅子が、どれほど奇妙な空席だったかを見るために。
ドナテラが退いたあと、椅子が二度空いた
ミュリエが座る椅子は、直前の一年で二度空いている。
2025年3月13日、ドナテラ・ヴェルサーチェ(Donatella Versace)がチーフクリエイティブオフィサーの退任を発表した。
4月1日付でチーフブランドアンバサダーへ移り、以後は服ではなく慈善とブランドの擁護を担う立場になる。
兄ジャンニ・ヴェルサーチェ(Gianni Versace)が1997年に射殺されて以来、28年にわたってコレクションの最終決定を握ってきた人物が、はじめて針の手を置いたのだ。
後任には、Miu Miuのデザイン・イメージディレクターだったダリオ・ヴィターレ(Dario Vitale)が同じ4月1日付で就いた。
創業家の外からの初の起用である。
ここで一度、「家族の手による過剰」は終わったはずだった。
ところが、である。
ヴィターレは2025年9月に2026年春夏コレクションを発表したあと、12月に退任を発表した。
就任から一年が経っていない。
発表されたコレクションは一つきり。
椅子はまた空いた。
この一年を、単なる人事の不運と読むこともできる。
たしかにそうとも言える。
だが、もう少し踏み込んで見たい数字がある。
ドナテラの28年と、ヴィターレの一年未満。
この落差こそが、ミュリエに託されたものの正体を、いちばん正確に指し示している。
「過剰」は、もともと一人の人間の体温だった
ヴェルサーチェの難しさは、ブランドの核が思想である以前に、個人の人格だったことにある。
ジャンニ・ヴェルサーチェは1946年、南イタリアのレッジョ・カラブリアに生まれた。
仕立て屋の母のもとで育ち、1972年にミラノへ出て、Byblos、Genny、Complice、Callaghan、Mario Valentinoといったブランドで腕を磨く。
自身のメゾンを立ち上げたのは1978年。
兄サント、妹ドナテラの協力のもと、Palazzo della Permanenteで初のウィメンズウェアを発表し、同年、Via della Spigaに最初のブティックを開いた。
彼が掲げたものは、当時のミラノの空気と真っ向からぶつかっていた。
北イタリアのラグジュアリーが尊んだのは、贅沢を品よく抑える「良趣味」である。
ジョルジオ・アルマーニの控えめな機能美が称賛される街で、ジャンニは露出し、金色を使い、バロックの装飾を盛り、ポップカルチャーを恥じらいなく掲げた。
アルマーニ、ジャンフランコ・フェレと並んで「ミラノの3G」と呼ばれながら、彼だけが禁欲の反対側に立っていた。
紋章がメドゥーサであることが、すべてを語っている。
故郷の古代遺跡で遊んだ少年が、地面に刻まれた「見た者を石に変える」怪物の図像に魅入られ、それをブランドの顔に据えた。
見られることの美学。
視線を奪い、動けなくするほどの服。
技術も本物だった。
1982年には軽量なチェーンメイル素材「Oroton」を開発し、1990年にはパリでオートクチュール「Atelier Versace」を発表している。
仕立て屋の息子としての確かさが、派手さの下に必ず敷かれていた。
「やりすぎ」が成立したのは、縫製が崩れていなかったからだ。
ここまでは、過剰という思想の話に見える。
だが、それを体現していたのは思想ではなく、カラブリア出身の一人の演出家の体温だった。
だから1997年7月15日、マイアミの自宅カーサ・カスアリーナの門前で彼が射殺されたとき、ブランドは思想ではなく、体温を失ったのである。

妹は、思想ではなく人を継いだ
ドナテラが継いだのは、ジャンニの美学ではない。
ジャンニという人間だった。
だからこそ難しかったし、だからこそ続いた。
ドナテラは1955年、ジャンニと同じレッジョ・ディ・カラブリアに生まれた。
フィレンツェ大学で文学と言語を学びながら、週末ごとにミラノの兄のもとへ通い、ミューズであり批評家であり続けた。
スタイリング、イメージ、アクセサリー、靴、バッグ。
彼女が形を与えた領域は広い。
1989年、ジャンニはディフュージョンライン「Versus」を、妹への「贈り物」として立ち上げている。
その妹が、兄の死後にクリエイティブディレクターの椅子に座った。
ジャンニの死後18年間、薬物依存と闘いながら、である。
この事実を派手な物語に仕立てる気はない。
ただ、彼女が継いだものが、図面でも理論でもなく、一緒に過ごした人間の記憶だったことだけは押さえておきたい。
転機は2000年2月23日、第42回グラミー賞だった。
ジェニファー・ロペスが着た、ドナテラ設計のグリーンのジャングルプリントのドレス。
あまりに検索が殺到したため、Googleの共同創業者がユーザーに画像を見せる仕組み、すなわちGoogle Image Searchを開発する契機になった、と広く語られている。
一着のドレスが、テクノロジーと大衆を同時に動かした。
欲望を全開にした服が、インターネットの基盤機能を押し出したという、この自己像こそがドナテラの再定義の核にある。
兄の官能に、彼女は「拡散する欲望」を足したのだ。
見られる服が、見るための道具をつくらせた、というわけである。

継承の神話には、裂け目もある
もっとも、「家族の親密さ」という神話を、そのまま美しいものとして受け取るわけにはいかない。
ヴェルサーチェ家は、2018年のテレビシリーズ『The Assassination of Gianni Versace: American Crime Story』と、その原作『Vulgar Favors』を、「フィクションとしてのみ考慮されるべき」だと強く非難する声明を出した。
創業者の死という、ブランドに悲劇と不死のアウラを与えた出来事の描かれ方をめぐって、家族は防御の姿勢を崩さなかった。
「家族による過剰」は、物語としては完璧に閉じている。
ジャンニが始め、妹が守り、娘アレグラ・ヴェルサーチェ・ベックが叔父の株式を相続して支配株主となった。
だがその物語が描かれる側に回った瞬間、家族は拒絶する。
親密さの神話と、神話を他人に語らせない強さは、同じ一つの態度の裏表だった。
この裂け目を踏まえると、資本の側の動きも違って見えてくる。

「過剰」は、いつから商品になったのか
ヴェルサーチェは、反抗的な官能を売りながら、その官能をずっと管理されたラグジュアリー企業として運営してきた。
この矛盾を、代替わりの話から切り離すことはできない。
2011年、ヴェルサーチェはH&Mと「VERSACE for H&M」を発表した。
ゴージャスな大人のブランドが、「手の届く」存在へと輪郭を変えた瞬間である。
反抗の官能が、大衆コラボの棚に並んだ。
それは裏切りだったのか、それとも拡張だったのか。
当時それを堕落と見た声もあったが、ブランドの認知はこれで決定的に広がった。
そして所有権そのものが流転する。
2018年、ヴェルサーチェはCapri Holdings(旧Michael Kors Holdings)に21億ドルで買収された。
ドナテラはクリエイティブディレクターにとどまったが、メゾンはもはや一族だけのものではなくなっていた。
Capri傘下での2023会計年度(2023年4月終了)の世界収益は約11億ドル。
21億ドルで買われたメゾンが、年に11億ドルを売る。
メドゥーサを冠した思想は、はっきりと勘定の対象になっていた。
次がPrada Groupである。
買収の時期については情報源が割れており、2025年4月の発表を伝えるものと、同年12月2日の完了を伝えるものがある。
いずれにせよ流れは動かない。
「やりすぎ」を美学にしたメゾンが、北イタリアの別の巨大資本の傘下に入った、という流れである。
経営の舵を取るのは、現CEOのエマニュエル・ギンツバーガー(Emmanuel Gintzburger)だ。
クリエイティブの椅子が一年で二度空いたあいだも、この体制は走り続けている。
デザイナーの交代劇が人格の継承の物語だとすれば、その下では収益と流通が別の論理で回っている。
ミュリエの起用は、このCEO体制と並走する経営判断でもある。
Pradaといえば、知性的な抑制のイメージで知られるグループだ。
露出と金色とバロックを掲げてきたヴェルサーチェが、その対極に近い場所に収まる。
この組み合わせの奇妙さを覚えておいてほしい。
ミュリエの起用が、ただのデザイナー人事ではない理由が、ここにある。
ミュリエは「過剰の人」ではない
では、Pradaはどんな人物に過剰を託したのか。
経歴を並べると、ヴェルサーチェの歴史とは明らかに毛色が違う。
ピーター・ミュリエが学び、仕えてきた場所を思い返すと、その手の感触がわかる。
ミニマリズムを畳んだ手。
抑制を知る手。
身体に沿わせる手。
Raf Simons、Jil Sander、Dior、Calvin Klein、ALAÏA。
そしてデザインと並んで建築を学び、盛るのではなく支える論理を身につけた手である。
この顔ぶれを、ヴェルサーチェの隣に置いてみる。
- Jil Sander——ミニマリズムの代名詞。装飾をそぎ落とす思想の本家。
- Raf Simons——知性と構築で知られ、感情を抑制の内側に畳み込む作家。
- Calvin Klein——アメリカの、削ぎ落とされた官能。
- ALAÏA——身体に沿う究極の仕立て。構造で官能を作るメゾン。
- 建築——盛るのではなく、支える論理。
一つずつ、ヴェルサーチェの核に突き合わせてみる。
Jil Sanderのミニマリズムは、メドゥーサのバロックの正体をそのまま裏返したものだ。
Raf Simonsの抑制された知性には、ジャンニの祝祭的な奔放さの面影がない。
Calvin Kleinの削ぎ落とされた官能も、金色とは逆の引き算だ。
ALAÏAの仕立て——ここだけは見覚えがある。
身体の官能を構造で引き出す点で、ジャンニの「縫製に裏打ちされたやりすぎ」と握手できる。
建築の論理も、過剰を支える骨格として読み替えられる。
つまりミュリエは、過剰そのものの人ではなく、過剰を構造として組み立てられるかもしれない人として選ばれている。
Pradaが選んだのが「もう一人のジャンニ」ではなかったことは、意味が重い。
体温で過剰を成立させた創業者と、その記憶で過剰を継いだ妹。
その系譜のあとに、資本は、記憶を持たない構築の人を据えた。
それが正解なのかは、まだわからない。
過剰は、抑制を知る手によって管理されると、過剰でなくなるかもしれない。
あるいは、骨格を持ってはじめて、カリスマに依存しない過剰として生き延びるのかもしれない。
答えはランウェイの上にしかなく、ランウェイはまだない。
託されたのは、服ではなく「依存の解除」
最後に、リードで固定した二つの数字へ戻りたい。
ドナテラの28年と、ヴィターレの一年未満。
この落差が示すのは、デザイナーの力量の差ではないと思う。
示しているのは、ヴェルサーチェという思想体が、どれほど個人のカリスマに依存して成立してきたか、という一点だ。
ジャンニの体温、ドナテラの記憶。
その二つが途切れた瞬間、椅子は一年で二度空いた。
ヴィターレの退任は、外部の人間が過剰を継ぐことの、最初の失敗例だったのかもしれない。
だとすれば、ミュリエに託されたのは「ヴェルサーチェ的な服を作ること」ではない。
カリスマに依存しない過剰を、構造として設計し直すことである。
建築を学び、ミニマリズムとALAÏAの仕立てをくぐってきた人物を選んだPradaのねらいは、おそらくそこにある。
冒頭で見た「奇妙な空席」は、デザイナー不在の椅子ではなかった。
カリスマなしに過剰を立たせられるか、という問いそのものが空席だったのだ。
メドゥーサは、見た者を石に変える。
これまでそのまなざしを持っていたのは、いつも一人の人間だった。
カラブリアの少年であり、プラチナブロンドの妹だった。
2026年7月1日、はじめて血のつながらない手が、その視線を引き継ぐ。
見る者を石に変える力は、個人の体温なしに残せるのか。
門前で途切れたあの視線を、構造の論理で組み直せるのか。
レッジョ・カラブリアの遺跡で少年が見つめた怪物が、今度は資本と設計図の側から、こちらを見返している。
FAQ
ピーター・ミュリエはいつヴェルサーチェに就任しますか?
2026年2月5日に新チーフクリエイティブオフィサーとして任命が発表され、就任は同年7月1日付です。
発表の時点で実作のコレクションはまだなく、評価は今後のランウェイを待つことになります。
なぜヴェルサーチェはPrada傘下に入ったのですか?
ヴェルサーチェは2018年にCapri Holdingsに21億ドルで買収され、その後Prada Groupへ移りました(買収の時期は情報源によって2025年4月の発表とも同年12月の完了とも伝えられています)。
いずれにせよ、創業家の手を離れた所有の流れは変わりません。
ドナテラ・ヴェルサーチェは完全に退いたのですか?
服の決定権からは退きました。
2025年3月に退任を発表し、4月1日付でチーフブランドアンバサダーに就任。
以後は慈善・チャリティ活動の主導と、世界規模でのブランドの擁護を担い、ブランドの顔として残ります。
