【ヴァレンティノ|ヴァレンティノ・ガラヴァーニ期】1960年から2007年まで、一色の赤でメゾンを築いた創業者の半世紀

一色の赤が、ひとつのメゾンの魂になりうるか。
ヴァレンティノ・ガラヴァーニ(Valentino Garavani)は、その問いに半世紀をかけて「イエス」と答えた人物だ。
マゼンタ100%、イエロー100%、ブラック10%——この配合で生まれた赤は、やがてPantoneに固有色として登録される。
色が知的財産になった、ほとんど唯一の例である。
ただ、話はそう単純に閉じない。
彼の名を決定づけたのは、赤ではなく「色のない」コレクションだった。
色で名を成した作家が、色の不在で評価された。
この矛盾を軸に、1932年の生まれから2007年の退任まで、一人のクチュリエの全史をたどる。
名前からして、物語だった
彼の情熱と優雅さは、名前そのものに書き込まれていた。
1932年5月11日、ロンバルディア州のヴォゲーラ(Voghera)に生まれる。
母テレサ・デ・ビアジ(Teresa de Biaggi)が、当時のサイレント映画スター、ルドルフ・ヴァレンティノ(Rudolph Valentino)にちなんで息子を名づけた——と広く語られてきた。
事実かどうかを確かめる術は少ないが、少なくともこの逸話は、後のメゾンの気質を言い当てている。
華やぎと、イタリア的な劇性。
修業の場はパリだった。
パリの美術学校とオートクチュール組合(Chambre Syndicale de la Couture Parisienne)に学び、ジャン・デセ(Jean Dessès)、続いてギー・ラロッシュ(Guy Laroche)のもとでキャリアを始める。
ここで身につけたのは、フランス仕込みの仕立ての論理である。
もっとも、彼が最終的に根を張ったのはパリではなかった。
ローマではじめる、という選択
1959年、彼はローマのヴィア・コンドッティ(Via Condotti)に最初のアトリエを開いた。
パリで学び、ローマで店を構える。
この地理の選択が、ヴァレンティノという作家のすべてを決めたと言っていい。
翌1960年、ジャンカルロ・ジャメッティ(Giancarlo Giammetti)とともにメゾンを正式に創業する。
デザイナーと、経営を担うパートナー。
この二人三脚が半世紀続く。
国際的な披露は1962年、フィレンツェのピッティ宮殿(Pitti Palace)で行われた。
パリのクチュールの作法を、イタリアの都市の記憶の上で展開する——ここから、他のどのメゾンにも似ていない立ち位置が始まる。
そして赤は、これらより前に生まれていた。

赤は、最初のコレクションにあった
Valentino Redは、1959年の最初の春夏コレクション、”La Fiesta”と呼ばれるドレスとともに現れた。
アトリエを開いた、まさにその年である。
配合は先に記したとおり、マゼンタ100%・イエロー100%・ブラック10%。
朱でも臙脂でもない、どこか燃え立つような赤だ。
この色がやがてPantoneに「Valentino Red」という名で登録される。
ひとつのブランドが、固有の色番号を持つ。
色は装飾ではなく、資産になった。
ここまでを「赤に執着したクチュリエの物語」と読むなら、それは半分しか当たっていない。

名を決めたのは、色の不在だった
人気を決定づけたのは、赤ではない。
1967年、白・ベージュ・アイボリーだけで構成された「色のない」コレクションだった(発表年は1967年とも1968年とも伝わる)。
翌1968年1月には「White Collection」が披露される。
考えてみれば、奇妙な出来事である。
燃えるような赤で知られた作家が、色を抜いた服で世界の評価を決定づけた。
けれど、これは矛盾というより両義性だろう。
装飾を愛しながら、全身を白や無彩色に沈めることもできる。
赤への情熱と、色を消す禁欲。
この振れ幅こそが、彼の美意識の正体だった。
同じ1967年、Vロゴが導入される(これも1968年説がある)。
色に加えて、記号を持つ。
赤・無彩色・Vという三つの要素が、ほぼ同じ時期に出そろった。
メゾンの文法は、1960年代の終わりにほぼ完成していたことになる。

事業として、広げる
ここから先は、作家が事業家としての顔を強めていく時間だ。
1978年には初の香水「Valentino」を発売する(1983年とする資料もある)。
服の外へ、メゾンの名を拡張する動きである。
1985年には、ミラノ・ファッションウィークで初のメンズショーを開いた。
女性のクチュールで築いた美学を、男性服へ翻訳する試みだった。
評価も重ねた。
1986年にイタリア共和国功労勲章のナイト・グランド・クロス、1996年には労働功労勲章、フランスではレジオン・ドヌール勲章とパリ市勲章を受けている。
国家が、一人のクチュリエを制度的に認めたということだ。
ただ、名声と所有権は別の論理で動く。
メゾンが、手を離れていく
評価の頂点と並行して、所有の構造は変わり始める。
1998年、ヴァレンティノとジャメッティは、イタリアの複合企業HdPへ会社を約3億ドルで売却した。
2002年、HdPはそれをMarzotto Apparelへ2億1,000万ドルで転売する。
創業者の名を冠したメゾンが、数年のうちに所有者を替え、売値は下がっていった。
土地と手仕事の物語と、企業買収の数字。
両者がここで初めて、はっきりと別のリズムで動き出す。
もっとも、クリエイティブの実権はまだ創業者の手にあった。
彼は2007年までクリエイティブディレクターを務める(退任を2008年とする資料もある)。
半世紀の仕事の終わりは、一人の後継者への引き継ぎだった。
退場、そして残された問い
2007年、ヴァレンティノ・ガラヴァーニはクリエイティブディレクターを退いた。
後を継いだのはアレッサンドラ・ファッキネッティ(Alessandra Facchinetti)である。
創業者が去ったあと、メゾンは問いを突きつけられる。
個人の名とカリスマに依存して築かれたものが、その個人なしで生き延びられるのか。
実際、所有はこの後もMarzotto系からカタール王室のMayhoola、そして30%を握るKeringへと移り、2028〜29年には完全買収の選択権すら設定された。
土地と職人の物語は、国境を越える資本の論理の中に置かれている。
では、創業者が残した赤は、誰のものになったのか。
後継者たちは、新しい一色を打ち出すことでそれに答えようとしてきた。
2022年のピエールパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)による「Pink PP」は、Valentino Redという伝統を、別の鮮烈な色で更新する試みだったと言える。
赤が制度として生き残るとは、おそらくこういうことだ。
固定された色番号としてではなく、「一色に魂を宿らせる」という方法そのものが受け継がれていく。
冒頭の問いに戻ろう。
一色の赤に、メゾンの魂を宿らせることは可能か。
ヴァレンティノ・ガラヴァーニの半世紀は、可能だと証明した。
そして皮肉にも、その証明がもっとも鮮やかに立ったのは、彼が色をすべて抜いた、あの白いコレクションにおいてだった。
FAQ
Valentino Redとは具体的にどんな色ですか
マゼンタ100%・イエロー100%・ブラック10%の配合で生まれた赤です。
1959年の最初の春夏コレクションの”La Fiesta”ドレスとともに登場し、現在はPantoneに「Valentino Red」という固有色として登録されています。
赤が代名詞なのに、なぜ「色のない」コレクションが重要なのですか
人気を決定づけたのが、1967年前後に発表された白・ベージュ・アイボリーだけの「色のない」コレクションだったからです。
色で名を成した作家が色の不在で評価された——この両義性こそ、ヴァレンティノの美意識を象徴しています。
ヴァレンティノ・ガラヴァーニはいつメゾンを離れましたか
クリエイティブディレクターを務めたのは2007年までとされます(退任を2008年とする資料もあります)。
後任はアレッサンドラ・ファッキネッティで、その後も世代交代が続きました。



