【Prada|Miuccia Prada期】1970年入社から半世紀、政治学者が「醜さ」で書き換えたラグジュアリーの意味

醜いものを、あえて選ぶ。
それを最も洗練された高級品として売る。
ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)が半世紀かけてやったのは、要するにこれだった。
彼女は美を放棄したのではない。
美とは魅惑の同義語だという前提のほうを、疑った。
その疑いが、ラグジュアリーの意味を書き換えた。
ここでは彼女の在任を時系列で一本に束ねる。
1970年に家業へ入った地点から、まだ終わっていない継承の現在地まで。
ただ、話は彼女から始められない。
まず、彼女がそこへ入ったとき、プラダ(Prada)が何であったかから始める必要がある。
女を締め出した創業者の店を、女が三代続けて継いだ
矛盾は、ミウッチャが登場する前から仕込まれていた。
プラダは1913年、マリオ・プラダ(Mario Prada)が兄弟マルティーノとともにミラノのガッレリア・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Galleria Vittorio Emanuele II)に開いた店である。
英国製の蒸気船用トランク、上質な革製品、旅行用の小物。
1919年にはイタリア王室御用達となり、サヴォイア家(House of Savoy)の紋章と結び目のロープをロゴに使う許しを得た。
この時点でのプラダは、旅する富裕層のための堅牢な革の店だ。
問題は、その創業者の信念にある。
マリオ・プラダは、女は商売に関わるべきではないと考えていた。
だから女性の家族を会社から遠ざけた。
ところが、息子は家業に関心を示さなかった。
継いだのは娘のルイーザ・プラダ(Luisa Prada)である。
彼女はおよそ20年、メゾンを率いた。
父の思想を裏切る形で、女が店を守った。
そして孫娘が入ってくる。
1970年、ミウッチャ。
女を締め出した創業者の名を世界的メゾンへ育てるのは、女性解放運動に身を投じた知識人だった——この皮肉を、彼女自身がどこまで意識していたかはわからない。
ただ構図としては、これ以上ないほど出来すぎている。
政治学の博士号、共産党員、そしてファッション教育なし
ここで一度、継いだ人物の履歴を並べておく必要がある。
なぜなら、彼女が後に何を敵に回したかは、この履歴からしか説明できないからだ。
ミラノ大学で政治学を修め、政治学の博士号を持つ。
ミラノのピッコロ・テアトロ(Piccolo Teatro)で5年間、マイム(無言劇)を学んだ。
1970年代のミラノで、イタリア共産党の党員として女性解放運動に加わった。
そして——正規のファッション教育は、受けていない。
この組み合わせは奇妙に見える。
ただ、あとで効いてくる。
理屈で服を考え、身体で表現を訓練し、既存の権威に背を向けることを厭わない。
しかもモードの作法を外から学んでいない。
流行に従う理由が、そもそも彼女の中に少なかった。
1978年、彼女はパトリツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli)と出会う(1977年とする資料もある)。
1987年に結婚。
ベルテッリは経営の相方となり、以後のプラダは、批評的知性と経営的野心の二頭立てで走る。
ちなみにミウッチャがこの「プラダ」の名を正式に名乗るのは、1980年代に叔母の養女となってからだ。
継承とは、名前ごと引き受けることでもあった。

ナイロンのバックパックという価値転倒
彼女が最初に手をつけたのは、服ではなく素材だった。
ミウッチャは、ポコノ(Pocono)というナイロン生地で防水のバックパックを作り始める。
産業用の、安価な化学繊維だ。
それを革の老舗が、最高級品として世に出した。
ここには単なる新奇さ以上のものがある。
革が価値を持つのは、革だからではない。
人がそう決めたからだ。
ナイロンを高級品にできるなら、価値とは社会的に構築されたものにすぎない——彼女の後年のすべてが、この一点から派生していく。
1984年には靴を、そして服へと領域を広げていく。
もっとも、当時この転倒を思想として読んだ者は多くなかっただろう。
まずは、軽くて丈夫で新しい鞄だった。

1988年秋冬、自分のワードローブから始めた反旗
ここで問いを一つ。
革の老舗が、なぜ地味な服を作ったのか。
1988年秋冬、プラダは最初のプレタポルテ(既製服)を発表する。
着想源は、ミウッチャ自身のワードローブだった。
シンプルな黒と茶の服、飾り気のない学生服のような装い。
これが80年代のマキシマリズム(過剰主義)に真っ向から反した。
金と肩パッドとロゴが誇示された時代である。
派手であることが豊かさの証だった。
その只中で、彼女はあえて地味を選んだ。
なぜか。
ここで履歴が効いてくる。
女性解放運動を通ってきた知識人にとって、当時のラグジュアリーには一つの前提が透けていた。
女は男の目を喜ばせるために装う、という前提だ。
装飾過剰の贅は、その前提の上に成り立っていた。
彼女が敵に回したのは、過剰さそのものというより、過剰さが仕えている相手のほうだった。
地味な服は、見られるための服ではない。
見る主体としての女のための服だ。
1995年には初のメンズラインも立ち上がる。
反旗は、静かなまま領域を広げていった。

1992年、いったん「淑女」へ戻ってみせる
ところが、次の一手は予想を裏切る。
1992年春夏、プラダはミニマルで清潔な、淑女然としたスタイルを打ち出した。
1950〜60年代のパリッとした生地を参照し、ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)やジャクリーン・ケネディ(Jackie Kennedy)を引いた。
反マキシマリズムから、こんどは端正なレディライクへ。
一見、彼女は美しさの側に寄り戻したように見える。
ただ、これを単なる回帰と読むのは早い。
過去の様式を引用として扱う手つきは、次の「醜さ」への助走でもあった。
美しいものを美しく作れることを示したうえで、彼女は次にそれを崩す。
1996年春夏、「ugly chic」——気まずさを美学化する
1995年秋、プラダは翌1996年春夏コレクションを発表する。
ここで彼女は決定的な一線を越えた。
色を見ればわかる。
アボカドグリーン、スラッジブラウン(泥のような茶)、ブロンズ、タン、そして濁った1970年代のトーン。
どれも意図して不穏で、意図して野暮ったい。
柄はぶつけ合わされた。
台所のテーブルクロスのようなチェックに、薄汚れた50年代の花柄。
ライトブルーとダークブラウンのような、噛み合わない色の対比。
靴は、無骨なT字ストラップのサンダルや、異様に低いヒールのスライダーだった。
美しくない。
少なくとも、それまでの基準では。
後に「ugly chic」と呼ばれるこの美学は、挑発である。
美が魅惑の同義語だという前提を、彼女は色で反証してみせた。
魅力的でない色、こなれない柄、身体を引き立てない靴。
それでも成立する——いや、それだからこそ洗練として成立する高級品を、彼女は市場に出した。
ここに、彼女の最大の逆説がある。
反美学を掲げながら、その反美学こそが最も洗練された商品として売られた。
醜さは、正しく醜いときにだけ、最高の贅沢になった。
この矛盾を彼女は解こうとしない。
生きるほうを選ぶ。
批評家が、巨大資本として振る舞い始める
では、反消費の批評性を掲げた知識人が、その後どう振る舞ったか。
ここが、最も居心地の悪い部分だ。
1997年、アスレジャーを取り込んだプラダ スポーツ(Prada Sport)が始動。
1999年にはウエストポーチを出す一方で、買収が続く。
同年、ヘルムート・ラング(Helmut Lang)のニューヨーク法人の51%を4000万ドルで、ジル・サンダー(Jil Sander)を1億500万ドルで、英国の靴メーカー、チャーチ(Church’s)の83%を1億7000万ドルで取得。
さらにLVMHと組み、フェンディ(Fendi)の51%を計5億2000万ドルで押さえた。
だが、この拡張は長続きしなかった。
2001年、負債圧縮のためフェンディ株を2億9500万ドルでLVMHに手放す。
2006年までにヘルムート・ラングとジル・サンダーを売却。
チャーチも45%をエクイノックスへ譲った。
批評的な知性を体現するメゾンが、資本の論理で買い、資本の論理で売った。
反消費を語りながら、消費の巨大装置として振る舞う。
この矛盾もまた、解かれることなく現在まで続いている。
Fondazione Prada——ブランドを文化生産の装置へ
一方で、彼女は別の場所に資本を注いだ。
ここは礼賛ではなく、彼女の知性がどこへ向かったかの記録として置く。
2002年、ミウッチャの現代美術館フォンダツィオーネ・プラダ(Fondazione Prada)が始動する。
ミラノ本拠は南部のラルゴ・イザルコ、1910年代の蒸留所跡だ。
2015年、レム・コールハース(Rem Koolhaas)が設計したミラノの主要拠点が開館した。
総面積1万9000平方メートル、うち1万1000平方メートルが展示空間。
既存の7棟に、ポディウム、シネマ、トーレの新3棟が加わる。
コレクションにはアニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)、ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)らが並ぶ。
ウェス・アンダーソン(Wes Anderson)が設計したカフェ、バール・ルーチェ(Bar Luce)には、50年代風の内装とジュークボックス、キャンディの瓶が並ぶ。
建築との結びつきはショーにも及ぶ。
コールハース率いるOMA/AMOがプラダのセットを手がける関係は、1999年のニューヨーク店設計から始まった。
2014年春夏では、ディエゴ・リベラ(Diego Rivera)らメキシコの壁画運動を参照し、観客を中央に据えて周囲に街路を巡らせる、ショーの構図を反転させる会場を作った。
美術、建築、映画、哲学。
プラダはブランドである以前に、文化を生産する場になっていった。
反美学の批評家は、批評そのものを制度として抱え込んだ。
継承の途上——Raf Simonsと、子世代へ
そして現在地。
ここは終点ではない。
2010年代前半、プラダは苦しんだ。
香港市場での上場は何度も頓挫する。
だが5度目の挑戦でIPOを完遂し、21億ドルを調達。
イタリア企業として、そしてラグジュアリー企業として初の香港上場だった。
2020年2月、ラフ・シモンズ(Raf Simons)が共同クリエイティブディレクターに就任する。
以後のコレクションは二人の連名で発表される。
2024年春夏の女性向けコレクションはフォンダツィオーネ・プラダで発表され、1913年にマリオ・プラダが構想したハンドバッグを再解釈した。
もとはシルクモアレで提案された鞄が、ナッパレザーと再生ナイロンのRe-Nylonで、神話的な図像を手彫りした留め具とともに甦った。
創業者の最初の設計図が、110年越しに、持続可能性の素材で作り直された。
2023年1月、アンドレア・グエッラ(Andrea Guerra)がプラダ・グループCEOに就任。
2020年代、ミウッチャとベルテッリは子世代への継承を始めている。
そして2025年12月、グループはヴェルサーチ(Versace)を13.75億ドルで買収した。
反マキシマリズムを掲げた批評家のメゾンが、80年代的な華やかさの象徴を傘下に収める——この矛盾も、彼女は生き抜くほうを選んだ。
半世紀前、女を締め出した創業者の店を、一人の女が継いだ。
彼女はナイロンの鞄と、自分の地味なワードローブと、アボカドグリーンで、美と価値が誰かの決めた約束事にすぎないことを暴いた。
その仕事は、まだ子世代へ手渡される途中にある。
醜さを最高の贅沢に変え、批評しながら巨大化し、家業を裏切りながら守り続ける。
この矛盾を解かずに抱えたまま進むことこそ、彼女がラグジュアリーに書き込んだ意味だった。
FAQ
「ugly chic」とは結局どういう美学ですか
美しさを魅惑と切り離す試みです。
1996年春夏のアボカドグリーンやスラッジブラウン、噛み合わない柄の組み合わせに代表されるように、あえて不穏で野暮ったいものを選び、それでも成立する洗練を提示しました。
女が他者の視線を喜ばせるために装うという前提そのものへの、静かな異議申し立てでもあります。
なぜナイロンのバックパックが重要なのですか
産業用の安価なナイロン(ポコノ)を革の老舗が最高級品として売ったこと自体が、価値の転倒だからです。
革が高いのは革だからではなく、人がそう決めたから——この気づきが、後の「醜さ」の美学や、価値は社会的に構築されるという彼女の一貫した主張の出発点になりました。
ミウッチャ・プラダはもう退任したのですか
いいえ。
2020年にラフ・シモンズと共同クリエイティブディレクター体制となり、2020年代に子世代への継承を進めていますが、コレクションは現在も二人の連名で発表されています。
退任という区切りではなく、継承の途上にあると見るのが正確です。



