ディオール(Christian Dior)はなぜ画商崩れだったのか——ピカソを売っていた男が布に辿り着くまで

Diorが本来歩むはずだった外交官という定められた進路と、彼が生まれた裕福な実業家一家の期待を理解させる
外交官になるはずだった

クリスチャン・ディオール(Christian Dior)が最初に売ったのは、服ではなく絵だった。
ピカソ(Pablo Picasso)、ブラック(Georges Braque)、ダリ(Salvador Dali)——1920年代のパリで、この男は前衛絵画を扱う画商だった。
42歳で「New Look」を世に問い、モードの首都をパリに呼び戻す男が、それまでの二十数年を布とはほとんど無縁に生きていた。
この記事が追うのは、その回り道である。
遅咲きとは、才能が遅れて芽吹くことではない。
芽吹くべき土壌を、本人が最後まで知らずにいたということだ。

外交官になるはずだった

はじめに、ディオールは服のことを何も考えていなかった。
両親が息子に望んだのは、外交官の道である。

クリスチャン・エルネスト・ディオール(Christian Ernest Dior)は1905年1月21日、ノルマンディーの海辺の町グランヴィルに生まれた。
父モーリス(Maurice Dior)は肥料と化学薬品を扱うディオール・フレール社(Dior Frères)の社長で、一家は裕福だった。
5人兄弟の次男。
一家は1911年にパリへ完全に移り住む(移住年は1910年とする資料もある)。

両親の意向で、クリスチャンはパリ政治学院に入る。
外交官を養成する、フランスのエリートの登竜門だ。
ここまでは、事業家の家の次男に用意された、ごく順当な人生に見える。
ただ、彼は1926年に中退した。

なぜ辞めたのか。
検証済みの事実は「中退した」としか語らない。
だから、ここで彼の内面を勝手に描くことはしない。
確かなのは、外交官の道が閉じた先で、彼が選んだのが絵だったということだ。

Diorが本来歩むはずだった外交官という定められた進路と、彼が生まれた裕福な実業家一家の期待を理解させる

画商としての数年間

外交をやめた男が向かったのは、前衛絵画の世界だった。
ここが物語の核心である。
ディオールは服の前に、まず「見る目」で商売をした。

1928年、友人のジャック・ボンジャン(Jacques Bonjean)とともに、父の資金援助を受けて画廊を開く。
パリのラ・ボエティ通り34番地、ギャルリー・ジャック・ボンジャン(Galerie Jacques Bonjean)。
扱った作家の名前を並べれば、当時のパリ前衛の目録そのものだ。
ピカソ、ブラック、マティス(Henri Matisse)、ダリ、マックス・ジャコブ(Max Jacob)。

この一覧を、ただの豪華な名簿として読み流したくない。
ここに並ぶのはキュビスムであり、フォーヴィスムであり、やがて来るシュルレアリスムである。
20世紀の絵画が身体や形をどう解体し、再構築するかを問い続けた画家たちだ。
ディオールは20代を、その最前線を「売る」側で過ごした。
何が新しく、何が古いかを、値段をつけて判断する仕事である。

のちに彼が女性の身体を丸い肩と絞ったウエストと豊かなスカートで劇的に「再構築」したとき、そこにダリを扱った画商の目がなかったと言い切れるだろうか。
断定はできない。
ただ、絵と服のあいだに何の連続もなかったと考えるほうが、かえって不自然に思える。

画廊の主人は、優雅な文化人だった。
まだ服のことは、頭の隅にもない。

Diorが服より先に前衛絵画を「売る目」で商売し、キュビスムやシュルレアリスムの解体と再構築の思想に浸っていたことを理解させる

破産が、すべてを止める

順調に見えた。
しかし、地面のほうが抜けた。

1931年、ディオールの画廊は閉じる。
理由は二つ重なった。
世界恐慌と、父の事業の破綻である。
肥料会社が傾き、画廊を支えていた資金源が消えた。
裕福な家の次男という土台そのものが、崩れたのだ。

それでも彼は絵の世界を諦めていない。
1932年、今度はピエール・コル(Pierre Colle)と組んで、カンバセレス通り29番地に別の画廊を開く。
まだ画商であろうとした。
この執着は、彼にとって絵が単なる家業の余技ではなかったことを物語る。

だが、追い打ちがかかる。
ディオールは結核を患い、カリヤンの家族の田舎家で1年間の療養に入る。
仕事どころではない。
事業を失い、資産を失い、そして健康まで失った。
30歳を目前にして、彼は何者でもなくなっていた。

ここで問いが一つ残る。
財も健康も失った画商崩れの男が、では、どうやって布に辿り着いたのか。

世界恐慌と父の事業破綻、そして結核という三重の喪失によってDiorが何者でもなくなった転落を理解させる

療養のスケッチが、扉を開ける

答えは、療養中の手すさびから来る。
ここで初めて、ディオールと服が出会う。

カリヤンで療養しながら、ディオールはファッションのスケッチを描きはじめた。
そしてそれを、クチュールメゾンに売った。
買い手の名を見れば、彼がいきなり一流の水準に触れていたことがわかる。
パトゥ(Patou)、ウォルト(Worth)、エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)、マギー・ルフ(Maggy Rouff)、エドワード・モリヌー(Edward Molyneux)。

絵で身を立てられなかった男が、絵でモードに滑り込んだ。
皮肉と言えば皮肉だが、筋は通っている。
画商時代に磨いた「何が売れる形か」を判断する目と、療養中に手に取った鉛筆が、ここで結びついた。
彼は『フィガロ(Le Figaro)』や『ル・ジャルダン・デ・モード(Le Jardin des Modes)』のスケッチ画家としても働きはじめる。

デザイナーではない。
まだ、絵を描いて売る人だった。
ただ、売る対象が絵画からモードへと移っていた。

1938年、ロベール・ピゲ(Robert Piguet)に雇われ、三つのコレクションをデザインする機会を得る。
ピゲが彼をオートクチュールの世界へ導いた。
続いてリュシアン・ルロン(Lucien Lelong)のメゾンにデザイナーとして入る。
33歳を過ぎて、ようやく「服を作る人」になったのだ。

外交、絵画、そして服。
三度目にして、彼はとどまる場所を見つけた。

療養中に手にした鉛筆と、画商時代に磨いた眼が結びつき、絵から服へと売る対象が移っていった転機を理解させる

遅咲きという言葉では足りない

ここまでを「遅咲き」の一語で片づけたくなる。
しかし、その言葉は少し安易に思える。

ディオール自身の名を冠したメゾンがモンテーニュ通り30番地に開くのは、1946年12月16日。
マルセル・ブサック(Marcel Boussac)の資金援助を得て、初期資本600万フラン、従業員は80人あまりで始まった。
翌1947年2月12日、最初の1947年春夏コレクションが発表される。
「Corolle(花冠)」と「Huit(8の字)」と名づけられた二つのライン。
丸い肩、細く絞ったウエスト、たっぷりと布を使ったスカート。

『ハーパーズ・バザー(Harper’s Bazaar)』編集長カーメル・スノウ(Carmel Snow)がこれを「New Look」と呼んだ。
バー・スーツ(Bar suit)がその象徴になった。
戦争で疲れきった世界に、贅沢の記憶が一夜で呼び戻された——そう語り継がれてきた。
ディオールは42歳になっていた。

思い返せば、この「布を惜しまない贅」は、彼が20代を過ごした前衛絵画の場所とは正反対に見える。
キュビスムは形を削ぎ、解体した。
New Lookは、削がれたものを取り戻し、過剰なまでに盛り返した。
同じ一人の男が、解体を売る画商から、復元を作る作り手へと反転した。

その反転が、42年という回り道を要した。
だとすれば、遅咲きとは呼びにくい。
むしろ、外交・絵画・病・破産のどれ一つ欠けても、あのNew Lookは生まれなかったのではないか。
彼が失った土台の一つ一つが、服という最後の土壌を用意していた。
そう見るほうが、この人生には合っている。

もっとも、この見立てには反論もあろう。
「回り道こそが才能を育てた」というのは、結果を知る者の後知恵にすぎない、と。
たしかにそうだ。
破産と病を才能の肥やしと呼ぶのは、うまくいった者だけに許される物語である。
ディオール自身が同じことを望んで歩いたわけではない。

布に辿り着いた男が残したもの

だから最後に、あの画廊の名簿へ戻りたい。
ピカソ、ブラック、マティス、ダリ、マックス・ジャコブ。

ディオールは1957年に52歳で早世する。
その後、メゾンの名だけが残り、イヴ・サン=ローラン(Yves Saint Laurent)が21歳で跡を継いだ。
マルク・ボアン(Marc Bohan)、ジャンフランコ・フェレ(Gianfranco Ferré)、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)、ラフ・シモンズ(Raf Simons)、マリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)と、他者の美学が「Dior」の名を借りて交代し続けた。
2013年、シモンズはディオールの庭園と花への愛からコレクションを引き出した。
2020年、キウリはリー・ミラー(Lee Miller)やドラ・マール(Dora Maar)らシュルレアリスムの作家から着想を得た。

シュルレアリスム。
かつて画廊でダリを扱った男の名を冠したメゾンが、七十年後にシュルレアリスムを舞台に載せている。
創業者はとうにいない。
それでも、絵と服のあいだにあった連続は、名前ごと受け継がれた。

外交官になるはずだった男が、絵を売り、破産し、病み、鉛筆を手に取った。
売る対象が絵から服へ移っただけだ、と本人は思っていたかもしれない。
だが移ったのは対象ではなく、彼の生涯そのものの向きだった。
画商崩れという言葉には、だから少しだけ足りないものがある。
崩れたのは画商のほうで、辿り着いたのは、まぎれもなく作り手だったのだから。

FAQ

クリスチャン・ディオールは本当に画商だったのか

はい。
1928年、友人ジャック・ボンジャンと父の資金でパリに画廊を開き、ピカソ、ブラック、マティス、ダリらの作品を扱った。
世界恐慌と父の事業破綻により1931年に閉鎖し、1932年にピエール・コルと組んで別の画廊も開いている。

いつ、どうやってファッションの道に入ったのか

結核療養中にファッションのスケッチを描きはじめ、パトゥやスキャパレリらのメゾンに売ったのが始まりだ。
『フィガロ』などのスケッチ画家を経て、1938年にロベール・ピゲに雇われ、オートクチュールの世界へ入った。

自身の名のメゾンを立ち上げたのはいつか

1946年12月16日、パリのモンテーニュ通り30番地に開いた。
マルセル・ブサックの資金援助を受けており、翌1947年2月の最初のコレクションが、カーメル・スノウによって「New Look」と称された。
ディオールは当時42歳だった。

この記事について

本記事は、公開されている一次情報を多言語で収集し、記述ごとに出典と突き合わせて検証したうえで執筆しています。裏が取れなかった事項は断定せず、資料が食い違う点は両論を併記します。編集部の二段階の査読(事実の正確性/編集としての品位)を経て公開しています。

執筆・編集:REPOSITORY ONE 編集部