【徹底ブランド解説】知られざるサンローラン(Saint Laurent)の歴史|タキシードを女に着せた、男装の思想家

サンローランが階級的ヒエラルキーとジェンダー規範という二つの常識に同時に挑んだことを理解させる
沈黙を破る、二つの敵


サンローラン(Saint Laurent)は、男性服の語彙を女性の身体へ移植し、街路の既製服に至高のアトリエと同等の創造性を注いだメゾンである。創業者イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)が問うたのは一点――エレガンスとは、いったい誰のものなのか。

その答えとして彼が差し出したのが、1966年に発表した女性のためのタキシード「ル・スモーキング(Le Smoking)」だった。ドレスではなく、男の制服を。装飾ではなく、権力を。彼はそれを女性に着せることで、ファッションの常識を二重に裏切った。

沈黙を破る、二つの敵

イヴ・サンローランが同時に敵に回したのは、二つの強固な常識だった。

ひとつは、オートクチュールを頂点に置き、プレタポルテ(既製服)を二級品とみなす階級的なヒエラルキー。もうひとつは、女性らしさを装飾とドレスに閉じ込め、タキシードやサファリ、軍服といった男性服の語彙を女性から遠ざけてきたジェンダー規範である。

「街路の服に、至高のアトリエと同じ敬意を」。そう謳って彼が立ち上げたのが、後述するリヴ・ゴーシュ(Rive Gauche)だった。一方で「女性らしさ」の檻に対しては、男の制服そのものを女性の手に渡すことで応えた。エレガンスは生まれや性別に従属するものではない――その確信が、彼の全仕事を貫いている。

History

メゾンが半世紀以上にわたり創造監督を継承してきた歴史の流れを概観させる

第1章 イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)期 — 栄光と神経衰弱のあいだで

1936年8月1日、イヴ・サンローランはフランス領アルジェリアのオラン(Oran)に生まれた。植民地の地で育った少年は、17歳でパリ(Paris)へ渡り、ファッションを学びはじめる(18歳とする資料もあり、年齢には揺れがある)。

才能は早熟だった。1957年、わずか21歳でクリスチャン・ディオール(Christian Dior)の主任デザイナーに抜擢される。モードの帝国の頂点に、彼は若くして立った。だが栄光は脆さと隣り合わせだった。1960年、フランス陸軍への召集をきっかけに神経衰弱に陥る(兵役を1966年とする資料もある)。そして彼はディオールを去る――この「去り方」については、複数の説が併存している。自ら離れたとも、メゾンに解雇されたとも言われ、確実なのは、彼がかつての師ディオール側を契約違反で訴え、48,000ポンドの和解金を勝ち取ったという記録だ。独立は、意気揚々とした旅立ちというより、緊張と挫折をはらんだ過程だった。

その傍らには、1958年に出会ったピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)がいた。公私にわたる伴走者である。二人は自らの名を冠したメゾンを興す。創業年は1961年とする資料と1962年とする資料が割れているが、最初のコレクションが国際的な喝采のうちに発表されたのは1962年1月29日、月曜日――この日付だけは明確だ。出資者として米国のJ・マック・ロビンソン(J. Mack Robinson)が当初80%の株式を握り、財政を支えた。

アトリエが最初に手がけた一着は、リトルブラックドレスだった。黒。装飾を削ぎ落とした記号としての黒が、この物語の起点に置かれている。三つの頭文字を絡め合わせた有名なロゴは、フランスのグラフィックアーティスト、カッサンドル(Cassandre)の手になるもので、いまもメゾンのアイコンとして生き続けている(制作年は1961年説と1963年説がある)。

1960年代、彼の創造は次々と常識を揺さぶった。1964年、初の香水「Y」を発表――しかもユニセックスの香りだった。1965年には抽象画家モンドリアン(Mondrian)の絵画を写し取った「モンドリアン・ドレス(Mondrian dress)」を世に出し、絵画とモードの境界を溶かす。そして1966年、女性のためのタキシード「ル・スモーキング」が登場する。女性が男の制服を着るという思想を、彼はランウェイに突きつけた。同じ1966年、パリ左岸=セーヌ川左岸の、ボヘミアンで芸術的な空気にちなんだプレタポルテ・ライン「サンローラン・リヴ・ゴーシュ(Saint Laurent Rive Gauche)」を立ち上げる。最初のブティックはパリ6区。オートクチュールと同等の創造的エネルギーを注いだ、史上初の既製服ラインだった。1968年には男性向けの「サンローラン・リヴ・ゴーシュ・プール・オム(Rive Gauche pour Hommes)」も始動する。

時代の空気を彼は的確に掴んだ。ビートニク・ルック、サファリジャケット、タイトなパンツ、サイハイブーツ――街路の語彙を高級モードへ持ち上げた。ミューズにはルル・ド・ラ・ファレーズ(Loulou de La Falaise)、ベティ・カトルー(Betty Catroux)、タリタ・ゲティ(Talitha Getty)、カトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)らが集った。なかでもカトルーやド・ラ・ファレーズが体現したのは、痩身で中性的な、性別の境界をあえて曖昧にする身体だった。彼女たちが装ってみせた両性具有的な自由こそ、ル・スモーキングが女性に与えようとした「男の制服を着る権利」と地続きにある。1967年にはルイス・ブニュエル(Luis Buñuel)監督の映画『昼顔(Belle de Jour)』でドヌーヴの衣装を担当し、映画との初コラボレーションを果たす。彼は、自身のショーに黒人モデルを起用した最初のデザイナーでもあった。ランウェイの人種的均質性に、彼は亀裂を入れた。

1971年春夏オートクチュール「リベラシオン(Libération)」は1940年代に着想を得た作品で、当初はスキャンダルを巻き起こしたが、結果として1980年代ファッションの雛形となった。なお、1980年代を象徴する肩パッドの張り出したシルエットを「1978年に始めた」とする説もあるが、これはいわゆる逸話の域を出ない確度のもので、起点については資料が割れている。

1974年、メゾンはパリのアヴェニュー・マルソー5番地(5 avenue Marceau)へ移転。現在ここにはイヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent)が建つ。1976年7月、バレエ・リュス(Ballets Russes)の衣装に着想を得た豪奢な秋冬オートクチュールが、メゾン初の高い壇上のキャットウォークで披露された。翌1977年、中国に捧げたコレクションが香水「オピウム(Opium)」と同時に立ち上がる。香りを軸にオートクチュールを構想した史上初の試みだった――衣服・香り・イメージを一体で売る現代ラグジュアリーの手法を、彼はこのとき先取りしていた。一方で、東洋を意匠として引用するその身振りは、文化の消費という批判ともつねに背中合わせだった。

要点を確認しておくと、1936年オラン生まれの彼は17歳でパリへ渡り、1957年に21歳でディオールの主任デザイナーへ上り詰めた。だがそこを去った経緯には解雇説を含む複数の説があり、師を訴えて48,000ポンドの和解金を勝ち取っている。自らのメゾンの初コレクションは1962年1月29日に国際的喝采を浴び、その第一作はリトルブラックドレスだった。ル・スモーキング、リヴ・ゴーシュ、モンドリアン・ドレス、オピウム――彼はあらゆる常識を揺さぶり続けた。

早熟の天才が栄光と神経衰弱のあいだで揺れながら独立し革新を重ねた緊張を理解させる

第2章 トム・フォード(Tom Ford)期 — 創業者と並走した分業

メゾンの所有者は、創業者の手を離れていく。1993年、製薬会社のサノフィ(Sanofi、のちのElf-Sanofi)へ売却。1999年にはケリング(Kering、当時のPPR/Gucci Group)の手に渡った。

同じ1999年、トム・フォードがプレタポルテのデザインを担うために起用される。一方でイヴ・サンローラン自身はオートクチュールに留まる、という分業体制が敷かれた。創業者がなお現役で、しかしその名を冠したラインの一部を他者が手がける――緊張をはらんだ構図である。そして2002年、イヴ・サンローランはオートクチュールから引退する。

この時代の遺産は、思いがけぬ形で現在へ蘇る。フォード期のレザーバッグ「モンバサ(Mombasa)」は2026年春夏に復活し、いまや売上トップ5に食い込んでいる。一度メゾンを離れたデザイナーの仕事が、四半世紀を経て最も売れる商品になるという逆説が、ここにはある。

創業者がクチュールに残り他者がプレタポルテを担う分業体制の緊張を理解させる

第3章 ステファノ・ピラーティ(Stefano Pilati)期 — 洗練されたパリの精

2004年、トム・フォードの後を継いでステファノ・ピラーティが創造監督に就任する。彼はメゾンに、洗練されたパリのシックを注ぎ込んだ。

商業的にも結果を残した。就任初年度の2004年の売上1億6,200万ユーロを起点に、業績は以降伸長していく(到達額は資料により異なる)。2005年春夏のチューリップ・シルエットは顧客に愛され、世界的な流行となった。幅広の角バックルのベルト、ミューズ(Muse)バッグ、トリビュート(Tribute)サンダル、2009年春夏のケージ・シューズ――いずれも商業的成功を収めた。

一方で、彼は実験も恐れなかった。2008年秋のコレクションは、モデルに衝撃的なボウルカットと真っ黒なリップを施し、「甲殻のような硬さ」をまとった「未来的な女性自動人形の軍隊」と評された。あの硬質で非人間的な身体像は、九〇年代のミニマリズムを通過した後のゼロ年代――感情を読ませない強さや、装甲のような自律性を女性が求めはじめた時代の気分と、奇妙に響き合っていた。かと思えば2010年春夏では、白い刺繍の苺、ラベンダーブルー、ピンクといった陽光のような色を初めてパレットに導入し、人々を驚かせる。鎧の硬さと、ふいに差し込む柔らかな光。その振れ幅のなかに、強さと脆さを同時に生きる当時の女性像が映り込んでいた。2011/2012年秋冬には、純白の美学、プリンス・オブ・ウェールズ・チェック、ツイード、羽根とウール、レザーの混淆を見せた。8年の在任を経て、ピラーティは2012年2月27日にメゾンを去る。チューリップ・シルエットやミューズバッグといった商業的勝利と、自動人形のような実験性とを往復した、両義的な時代だった。

洗練されたパリのシックと実験性を両立させたピラーティ期の二面性を理解させる

第4章 エディ・スリマン(Hedi Slimane)期 — カリフォルニアから再生した左岸

2012年、エディ・スリマンが創造兼イメージ監督に就任する。だがこれは初登板ではなかった――1997年、ピエール・ベルジェ自身に招かれてコレクション兼アートディレクターに就き、リヴ・ゴーシュ・オム(Rive Gauche Homme)を再始動させたのち、2年で離れている。2012年の就任は、復帰という性格を帯びていた。

スリマンは大胆な刷新に踏み切る。プレタポルテのブランド名を「サンローラン(Saint Laurent)」へ、新ロゴを「Saint Laurent – Paris」へと改めた。これは創設期の「サンローラン・リヴ・ゴーシュ」への目配せであり、あの革命的な時代のヘルベチカ書体への回帰でもあった。さらに彼はロサンゼルス(Los Angeles)を拠点とし、デザインスタジオごと同地へ移す。フランスのメゾンの心臓を、カリフォルニアへ。

その美学はアメリカ西海岸の若者文化に深く根ざしていた。2013年秋コレクションはカリフォルニア・グランジに着想を得て、極端に短いレザースカート、クリスタルをちりばめたタイツのミニドレス、黒のコンバットブーツ、チェックのフランネルシャツ、ベビードールドレスに羽織るグランパ・カーディガンを並べた。2014年春コレクションにはリッププリント、レザーミニスカートに羽織るオリーブドラブの軍用ジャケット、そして幾度ものル・スモーキングが登場。同シーズンのメンズはカリフォルニア・ロックをテーマに、黒いレザー、痩身のボーイたち、見事に仕立てられたスキニートラウザーズを見せた。2015年秋冬の「パリ・セッションズ(Paris Sessions)」は、パリのニューウェイヴ・バンドへの賛歌だった。

商業的には驚異的だった。2012年から2014年にかけて売上は毎年20%超の成長を続け、2015年には2014年の7億700万ユーロから9億7,400万ユーロへと跳ね上がった。なお、経営面では2013年からフランチェスカ・ベレッティーニ(Francesca Bellettini)がCEOを務めている。1997年の短い在籍と2012年の凱旋、そしてカリフォルニア・グランジによる左岸精神の再生――スリマンはメゾンの起源を、遠く離れた西海岸から照らし直してみせた。

パリのメゾンの心臓をカリフォルニアへ移し、改名で創業期へ回帰した再生を理解させる

第5章 アンソニー・ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)期 — 映画的官能と、美術館化する遺産

2016年以降、創造監督を務めるのがアンソニー・ヴァカレロである。彼のもとでメゾンは、ジャンルを混淆させ、シルエットに映画的な次元を与え、洗練され力強い「欲望されること(desirability)」のヴィジョンを統合してきた。なお前任スリマンの退任については、契約更新をめぐる不一致が理由とも、その正式な退任日や発表時期がいつだったとも語られるが、いずれも確定した記録には乏しい。ケリングがヴァカレロに託したのは、メゾンを再定義し直すことではなく、スリマンが鋭く磨いた黒く官能的な輪郭を継承しつつ、その固有の魅力をさらに前面に押し出すことだったと見るのが妥当だろう。

彼の時代は、反逆の遺産を権威として保存・運用する局面でもある。パリのアヴェニュー・モンテーニュ(Avenue Montaigne)の新旗艦店は、ヴァカレロの監修のもと約2年をかけて造られ、3フロア・約1,200平方メートルに及ぶメゾン最大級の店舗だ。ダークウッドの螺旋階段、大理石の床、重厚な絨毯。ケリング会長フランソワ=アンリ・ピノー(François-Henri Pinault)のコレクションから来たマーク・ブラッドフォード(Mark Bradford)の大型コラージュ絵画が掛かり、シャルロット・ペリアン(Charlotte Perriand)が1967年に日本大使公邸のために構想した7メートルのソファのレプリカ、ジャック・アドネ(Jacques Adnet)やフランソワ=グザヴィエ・ラランヌ(François-Xavier Lalanne)の家具が並ぶ。さらに、創業者イヴ・サンローランとピエール・ベルジェのコレクションに含まれていたポール・ポワレ(Paul Poiret)の寝椅子まで展示される。ここにはメゾン初の受注仕立てサービスが導入され、「ル・スモーキング」専用のテーラリングルームまで設けられた。反逆の制服が、いまや特注の聖域として祀られている。

2023年に改装されたシャンゼリゼ(Champs-Élysées)旗艦店は「ブルータリズム×モダニズム」の新たなデザインコードを掲げ、リヴ・ドロワット(Rive Droite)店は書籍やレコード、文具、寿司レストランを併設し、文化との共生を打ち出す。サン=ジェルマンとサン=シュルピスの店舗には世界中の書物を集めた「SAINT LAURENT BABYLONE」の空間がある。

経営面では2024年からセドリック・シャルビ(Cédric Charbit)がCEOを務め、店舗数の拡大より立地の質と長期的価値を優先すると語る。ケリングはグループ再建計画「ReconKering」を進め、サンローランはグッチ(Gucci)に次ぐグループ第2の規模を担う。女性バッグ販売を2030年までに40%増、レザー製品に占めるアイコンアイテムの比率を30%へ、メンズを倍増以上、ジュエリーを3倍に――そんな数値目標のなかにメゾンは置かれている。一方で2025年第3四半期の売上は前年同期比で7%減少した。これはサンローラン単体の不振というより、ケリングがグッチを筆頭に抱える需要減速の局面を映したもので、グループ全体の再建のさなかにある数字として読むのが正確だろう。創造性と収益目標のあいだで、メゾンは揺れ続けている。

反逆の遺産が美術館的な権威として保存・運用される局面を理解させる

黒とモノグラム——変わらぬ核

サンローランの不変の核は、男性服の語彙を女性へ移植する思想と、街路の既製服を至高のアトリエと同等に扱う姿勢にある。

ル・スモーキングに象徴される男装の思想。左岸の芸術的・ボヘミアン的気質を引き受け、クチュールと同等の創造性を込めたリヴ・ゴーシュ。モンドリアン・ドレスやポップアート、ピカソ(Picasso)に見る「芸術を着る服」への翻訳。最初の一着であるリトルブラックドレスに始まる黒の記号性と、カッサンドルによる三文字のロゴ。そして中国やバレエ・リュスといった他文化からの大量の引用。これらが半世紀を超えて、メゾンの背骨を成している。

男装の思想・左岸の精神・黒の記号性・三文字ロゴという不変の核を理解させる

民主化を謳いながら、最も計算された商品へ

サンローランの最大の矛盾は、解放を語りながら、その記号が最も計算された商品へと転じていったことだ。

「街路の服に至高の敬意を」と謳ってリヴ・ゴーシュで民主化を掲げながら、その実体はオートクチュールの威光を借りた高級プレタポルテだった。解放を語る一方で、香水オピウムや中国コレクションのように、他文化を意匠として消費してもいる。創業者の死後はサノフィ、ケリングへと売られ、女性のバッグ販売を2030年までに40%増やすといった資本の論理に組み込まれていく。反逆の記号が、いまや美術館的な権威として保存・運用される――それがこのメゾンの宿命である。

解放を語る記号が最も計算された商品へ転じた矛盾を理解させる

神話の裏に潜む、いくつもの誤解

サンローランを語る神話には、事実と食い違う通説がいくつも混ざっている。

たとえば「彼がディオールを自ら飛び出して独立した」という美しい物語。実際には、去り方には解雇説を含む複数の説があり、彼は師を契約違反で訴えてもいる。「メゾンは1962年設立」という定説も、1961年説と併存して確定していない。明確なのは初コレクションの日付だけだ。「最初の香水はオピウム」という思い込みも誤りで、メゾン初の香水は1964年のユニセックス「Y」である。「YSL Beautyもブランド本体の事業」という理解も正確ではない――化粧品ラインはロレアル(L’Oréal)が保有し、クチュールやレザーはイヴ・サンローランSAS(Yves Saint Laurent SAS)が手がける。同じ「YSL」でも所有者は分かれている。そして「エディ・スリマンは2012年の外様起用」というのも誤解で、彼には1997年からの在籍歴があった。

創業年・独立の経緯・最初の香水など定説と事実の食い違いを理解させる

余白に——大使公邸のソファと、蘇るバッグ

アヴェニュー・モンテーニュの新店舗には、シャルロット・ペリアンが1967年に日本大使公邸のために構想した7メートルのソファのレプリカが置かれている。フランスのモダンデザインと日本外交が交わった一脚が、ブティックの内装として静かに再現されているわけだ。

そして、トム・フォード時代のモンバサ・バッグは2026年春夏に復活し、いま売上トップ5に食い込んでいる。過去のデザインが現在の最も売れる商品になる――メゾンが自らの遺産をどう運用しているかを、これほど雄弁に語る例もない。歴史を売り物に変える手つきの巧みさと危うさが、この一点に凝縮している。

行き着く上位概念

サンローランの物語は、最終的にいくつかの大きな概念へと流れ込む。

ル・スモーキングが体現したのは、衣服による権力(Power)と、男女の境界を溶かす両性具有(Androgyny)だった。リベラシオンが示したのは解放(Liberation)の身振りであり、リヴ・ゴーシュが掲げたのはラグジュアリーの民主化(Democratization of Luxury)という理想である。改名と回帰を繰り返しながら自らの輪郭を問い直し続けるメゾンの姿は、アイデンティティ(Identity)そのものをめぐる試行であり、中国コレクションやオピウムが抱え込んだのは、文化を意匠として引き受けることの是非――文化的盗用(Appropriation)という、いまなお答えの出ない問いだった。一着のタキシードから始まった思考は、こうして普遍的なテーマの群れへと我々を連れ出していく。

一着のタキシードがPower・Androgyny・Liberation・民主化・Identity・Appropriationへ流れ込むことを理解させる

FAQ

よくある疑問に答える解説の入り口であることを理解させる

ル・スモーキングとは何ですか?

1966年にイヴ・サンローランが発表した、女性のためのタキシードスーツです。男性服の語彙を女性の身体へ移植するという思想を体現し、女性が「強さ」を着るという発想を常識に変えました。パワーショルダーとともに1980年代のワードローブの原型を作ったとされます。

女性のためのタキシードが強さを着る発想を常識に変えたことを理解させる

サンローランの創業年は1962年で間違いないですか?

確定していません。創業年については1961年とする資料と1962年とする資料が併存します。明確なのは、最初のコレクションが国際的な称賛を浴びて発表された1962年1月29日(月曜日)という日付のほうです。

創業年が確定せず明確なのは初コレクションの日付のみであることを理解させる

YSLとSaint Laurentは何が違うのですか?

同じメゾンの呼称の変遷です。2012年にエディ・スリマンが就任すると、プレタポルテのブランド名は「Saint Laurent」へ、ロゴは「Saint Laurent – Paris」へと刷新されました。これは創業期のリヴ・ゴーシュへの目配せでもありました。一方、三文字のYSLロゴはいまもメゾンのアイコンとして使われ続けています。

呼称の変遷とロゴ刷新、三文字ロゴの存続を理解させる

イヴ・サンローランの最初の香水はオピウムですか?

いいえ。メゾン初の香水は1964年発表のユニセックスフレグランス「Y」です。オピウムは1977年の登場で、中国に着想を得たコレクションと同時に展開され、香りを軸にオートクチュールを構想した史上初の試みとして知られます。

メゾン初の香水が1964年のユニセックス「Y」でありオピウムではないことを理解させる

現在のサンローランは誰が所有していますか?

ケリング(Kering)です。1993年にサノフィへ、1999年にケリング(当時のPPR/Gucci Group)へと所有者が変わりました。ケリング内ではグッチに次ぐ第2の規模を持つメゾンです。ただし化粧品ラインのYSL Beautyはロレアル(L’Oréal)が保有しており、事業の所有者は分かれています。

所有者がケリングであり化粧品はロレアル保有と事業が分かれていることを理解させる