Lanvin 150年の歴史 – 老舗ラグジュアリーブランドの革新とデザイン
1889年創業のLanvin。「母娘コーディネート」を提案した創業者ジャンヌ・ランバン、伝統の「ランバン・ブルー」色、そして1920年代の「ランバン・スタイル」など、150年にわたるラグジュアリーブランドの歴史と革新について詳しく解説。
OVERVIEW
1889年創業のLanvin。「母娘コーディネート」を提案した創業者ジャンヌ・ランバン、伝統の「ランバン・ブルー」色、そして1920年代の「ランバン・スタイル」など、150年にわたるラグジュアリーブランドの歴史と革新について詳しく解説。
TABLE OF CONTENTS
💡 知っておきたい驚きの事実
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創業者のジャンヌ・ランバンは、当時画期的だった「母娘コーディネート」を提案 -
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「ランバン・ブルー」として知られるターコイズブルーの色は、創業当時からの代表色 -
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1920年代に発表された「ランバン・スタイル」は、現代ミニマリズムの源流とされる -
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創業者一家の歴代デザイナーは、すべて女性が務めてきた
老舗ラグジュアリーブランドの150年の歴史から学ぶこと
老舗ラグジュアリーブランドの150年の歴史から学ぶこと
ファッション史に造詣の深い読者の皆さんは、ルイ・ヴィトンやシャネルといった老舗ブランドの歴史について、ある程度ご存じだろう。
しかし、その150年にもおよぶ歴史の重みと奥深さを、十分に理解しているだろうか。
これらのブランドは、単なる高級品の提供者ではなく、ファッション業界の発展そのものと密接に関わってきた。
創業者の決断や、時代と共に変化していく価値観の移り変わりを追うことで、ファッションの近代史を学ぶことができるのである。
本稿では、ルイ・ヴィトンやシャネルの150年にも及ぶ歴史を紐解きながら、ファッション文化の変遷と伝統の継承について考察していきたい。
ブランドの軌跡から、デザインの潮流やマーケティングの手法、時代精神の反映など、ファッションの本質に迫ることができるはずだ。
1854年、ルイ・ヴィトンはパリのカプシーヌ通りに旅行鞄店を開店した。
当時、多くの貴族貴人たちが行き交う中心地において、彼は特注の丈夫な荷物を手がけ始めた。
その後、息子のジョルジュが市松模様のダミエ・キャンバスを開発。
1896年には、今日でも象徴的なモノグラム・キャンバスが誕生する。
このように、ルイ・ヴィトンは創業当初から、時代の要請に合わせて革新的な製品を生み出し続けてきたのである。
一方、シャネルは、ファッション史に対する影響力がルイ・ヴィトン以上に大きいといっても過言ではない。
1920年代のパリを代表する存在となった彼女は、女性解放運動の象徴ともなった。
リトルブラックドレスの提案をはじめ、コルセットの放棄や、ツイードスーツの流行など、シャネルの仕事は時代と密接に結びついていた。
戦時中の実用主義を経て、戦後の贅沢への反発を見事に捉えた彼女の革新は、ファッションのあり方を180度変えてしまったのである。
このように、ルイ・ヴィトンやシャネルの歴史を紐解くことで、ファッション界の変遷と伝統の継承の一端を理解することができる。
単なる高級ブランドの系譜ではなく、社会の移り変わりに呼応しつつ、新しい価値観を切り開いてきた軌跡に注目しよう。
ブランド創業者の決断と、時代の要請とのダイナミックな交響が生み出す世界観に、ファッションの本質に迫る手がかりが隠されているはずだ。
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19世紀末パリ、服飾界に新風を巻き起こした一女性
19世紀末のパリは、目まぐるしい変容の最中にあった。
産業革命の進展に伴い、新たな社会階層が台頭しつつあったのだ。
そのような時代の中、一人の女性が、服飾界に新たな風を巻き起こそうとしていた。
彼女の名はジャンヌ・ランバン。
1889年、パリのマレ地区にある小さな店で、母娘のための子供服を販売し始めたのである。
当時の子供服は、単なる縮小版の大人向けファッションに過ぎなかった。
しかし、ジャンヌは、子供ならではの自由な発想と動きやすさを取り入れた、革新的なデザインを生み出していく。
やがて、ランバンの斬新なスタイルは人々の注目を集めるようになった。
母と娘が、ランバンのコーディネートでそろって街を歩く姿は、まさに時代の先駆けだったのである。
ランバンは、ファッションを単なる装いの域を超えて捉えていた。
子供服に託した思想は、やがて大人のファッションにも大きな影響を及ぼしていくことになる。
ランバンの革新的な試みが、いかにして20世紀のファッション界を変革していったのか。
その道のりを辿っていきたい。
1889年、パリはまさに激動の時代を迎えていた。
世界博覧会の開催を目前に控え、都市は華やかな様相を呈していた。
一方で、産業革命の進展に伴い、新たな社会階層が台頭しつつあった。
伝統的な貴族社会に代わり、富裕な新興ブルジョワが台頭してきたのだ。
彼らは、ファッションを通じて自らのステイタスを誇示しようとしていた。
しかし、当時の子供服は、単なる大人向けファッションの縮小版に過ぎなかった。
そんな中、ジャンヌ・ランバンは、革新的なアプローチで子供服に取り組もうとしていた。
1889年、パリのマレ地区に小さな店を構えたランバンは、母と娘のための服作りを始めたのである。
ランバンのデザインの特徴は、子供ならではの自由な発想と動きやすさを取り入れていたことだ。
従来の子供服は、大人向けの縮小版にすぎなかったが、ランバンは子供の視点に立ち、遊びやすさ、快適性を重視した。
その革新的なアプローチは、やがて人々の注目を集めるようになった。
母と娘が、ランバンのコーディネートでそろって街を歩く姿は、時代の先駆けとなっていったのである。
ランバンは、ファッションを単なる装いの域を超えて捉えていた。
子供服に託した思想は、やがて大人のファッションにも大きな影響を及ぼしていくことになる。
ランバンの試みが、いかにして20世紀のファッション界を変革していったのか。
その軌跡を追っていきたい。
ジャンヌ・ランバンは、1889年にパリのマレ地区に小さな店を構え、母娘のための子供服の販売を始めた。
当時の子供服は、大人向けファッションの縮小版に過ぎなかったが、ランバンは子供ならではの発想を取り入れた。
彼女のデザインの特徴は、子供の自由な動きやすさを重視したことだ。
従来の子供服は硬直的で活発な遊びを制限していたが、ランバンは子供の視点に立ち、快適性と機能性を追求した。
その革新的なアプローチは、やがて人々の注目を集めるようになった。
母と娘が、ランバンのコーディネートでそろって街を歩く姿は、時代の先駆けとなっていったのである。
ランバンは、ファッションを単なる装いの域を超えて捉えていた。
子供服に託した思想は、やがて大人のファッションにも大きな影響を及ぼしていくことになる。
例えば、ランバンは女性の自由な動きを重視し、コルセットレスのデザインを提案した。
これは当時の規範を大きく逸脱するものだったが、やがてシャネルやディオールといったデザイナーたちにも受け継がれていくことになる。
このように、ランバンの革新的な試みが、20世紀のファッション界を変革していく原動力となったのである。
ファッションの歴史を紐解く上で、ランバンの足跡を辿ることは非常に重要だと言えるだろう。
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世紀転換期の波乱と躍進 ─ ランバン一家の挑戦
世紀転換期の波乱と躍進 ─ ランバン一家の挑戦
19世紀末、パリの高級婦人服業界は大きな転換期を迎えていた。
これまでの華やかな上流階級向けのデザインから、一般市民にも愛用されるようなスタイルへの移行が始まっていたのだ。
その変化の最前線にいたのが、ランバン一家だった。
小さな子供服店から出発したランバン社は、創業者のジャンヌ・ランバンの手腕によって、やがて婦人服の有力ブランドへと成長していく。
19世紀末から20世紀初頭にかけての波乱に満ちた時代に、彼女はファッション界に新しい潮流を呼び起こすことになるのである。
1889年、ランバン家の一人娘ジャンヌは、両親の店を引き継ぐべく、パリにやってきた。
当時、ランバン社は子供服を中心に手がけていたが、ジャンヌはそこに新たな可能性を見出していた。
彼女は、時代の要請に合わせて、婦人服の製造にも乗り出すのである。
ジャンヌが着想を得たのは、バスクの地方衣装だった。
素朴ながらも洗練された線条美に魅了された彼女は、それをモダンに昇華させていく。
そして1889年、彼女はパリに最初の婦人服店を開いた。
ここに、ランバン・ブランドの歴史が幕を開けたのである。
当時のパリは、まさに女性解放の波が押し寄せつつある時代だった。
長年の伝統的規範に縛られていた女性たちが、次第にその殻を破り始めていたのだ。
ジャンヌ・ランバンはその変化に敏感に反応し、ファッションを通じて、新しい女性像を提案していく。
ランバンのデザインの特徴は、まさに時代の趨勢に呼応したものだった。
堅苦しい上流階級の服飾から一転して、より実用的で活発な装いを提案したのである。
フリルや刺繍を排し、シンプルな中にも洗練された佇まいを追求した。
それは、「新しい女性」の姿勢そのものを体現するものだった。
1900年代初頭、ランバン・ブランドは急成長を遂げる。
パリのハイソサエティを中心に、ランバン・スタイルが広く支持されていったのである。
特に、1907年に発表された「ランバン・シルエット」と呼ばれるデザインは、大きな話題を呼んだ。
ゆとりのあるシルエットと絶妙なラインが、女性の自由な動きを可能にした。
さらに1920年代に入ると、ランバンのデザインはさらなる革新を遂げる。
フラッパー世代に人気を博したショートヘアや、短めのスカート丈は、まさに時代の寵児となった。
ここに、「ランバン・スタイル」が確立されていくのである。
しかしこの飛躍的な躍進の陰で、ジャンヌ・ランバンは激しい葛藤を抱えていた。
伝統的価値観と新しい時代精神との板挟みに苦しめられたのだ。
上流階級の支持を得ながらも、自身の理想と妥協を強いられ続けた。
そんな中、ランバンはついに1946年、経営から手を引くことを決意する。
彼女の後継者となったのが、娘のマリー・ブランシュだった。
ファッションの世界に新風を吹き込んだジャンヌ・ランバンの功績は、20世紀のファッション史に深く刻まれることとなる。
以後、ランバン・ブランドはマリー・ブランシュの手によって、さらなる飛躍を遂げていく。
1920年代に確立された「ランバン・スタイル」が、戦後の女性解放の潮流とも呼応し、世界中で人気を博するようになったのである。
ジャンヌ・ランバンの生涯は、ファッション史の中でも重要な足跡を残したと言えよう。
時代の変革に敏感に反応し、女性解放の先駆けとなったその足跡は、まさに20世紀の女性史そのものを映し出しているのだ。
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1920年代、パリのエレガントな女性像を確立
1920年代、パリのエレガントな女性像を確立
パリのファッション界は、1920年代に飛躍的な発展を遂げた。
第一次世界大戦の傷跡は癒えつつあり、人々は久しぶりの平和と繁栄を謳歌していた。
そのような中、一人の女性デザイナーが登場し、時代の空気を一変させることになるのである。
彼女こそ、ジャンヌ・ランバンである。
ランバンは1889年、パリのマレ地区に小さな裁縫店を開いた。
当時は貴族や上流階級しか利用しないオートクチュールの世界にあって、ランバンはそこに新風を巻き起こすことになる。
ランバンのスタイルは、まず「自然体」と表現できるだろう。
華麗な装飾ではなく、シンプルながらも洗練された佇まいが特徴だった。
女性の体型を生かしつつ、動きやすさも兼ね備えていた。
さらに、ランバンは女性の社会進出を後押しするデザインを提案する。
例えば、ショートヘアカットが流行したのは、ランバンの影響が大きい。
彼女は1916年、当時のステレオタイプだった長髪に別れを告げ、クローズカットのヘアスタイルを提案した。
これは単なるファッションの変化ではなく、女性の解放を象徴するものだったのである。
同様に、ランバンのスカート丈の革新も、社会的な意味を持っていた。
従来のロングスカートに代わり、膝丈のスカートを取り入れたのだ。
これによって、女性たちは自由に歩き回れるようになり、社会参加が容易になった。
まさに「新しい女性」の誕生を促した、ランバンのデザインだったと言えよう。
当時のパリでは、ランバンの存在が高く評価されていた。
ランバンは1920年代を通じて、次々と先進的なデザインを発表し続けた。
特に人々の注目を集めたのが、優雅なシルエットのドレスだった。
ウエストラインを強調しつつ、軽やかな印象を醸し出すそのデザインは、絶大な人気を博した。
1920年代のパリはまさに、女性解放の嵐が吹き荒れていた時代であり、ランバンはその象徴的存在だったと言えるだろう。
デザイナーとしての手腕はもちろん、時代の空気を的確に捉え、それを形にしていた点が高く評価されたのである。
一方で、ランバンと並んで注目を集めていたのが、クリスチャン・ベルナールだった。
ベルナールは1920年代後半から30年代にかけて、大きな影響力を持つデザイナーとなっていく。
ベルナールのスタイルは、ランバンとは一線を画していた。
彼はより華麗で装飾的なデザインを得意とし、ハイソサエティーの支持を集めていった。
特に、女性の肩を大胆に出したデザインは画期的で、セレブリティたちに広く採用された。
1920年代のパリは、ランバンとベルナールという二大デザイナーの覇権争いの場となっていた。
両者は互いに影響し合いながら、次々と革新的なデザインを発表し続けた。
そしてそれは、都市の文化的活気とも深くつながっていたのである。
当時のパリは、文化的な中心地として栄えていた。
文学、美術、音楽の分野で次々と革新的な作品が生み出され、若者たちの間で熱狂的な支持を集めていた。
ランバンやベルナールのファッションデザインは、まさにそのような時代精神の現れだったと言えよう。
この時期、ランバンやベルナールの店舗は、セレブリティやアーティストたちで賑わっていた。
例えば、ランバンのアトリエには、エドワード8世やウォルター・ギロー、オノレ・ド・バルザックといった著名人が訪れていた。
一方のベルナールも、ナタリー・クロフォードやジャック・デュカスといった当時の華やかな面々を顧客としていた。
このように、ランバンとベルナールは1920年代のパリにおいて、ファッションの最先端を走る存在となっていった。
両者のデザインは、単なる服飾の枠を超えて、当時の女性解放運動や文化的活気を象徴するものとなっていったのである。
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大戦と経営難、しかしなお伝統は続く
大戦と経営難、しかしなお伝統は続く
第二次世界大戦は、ファッション業界に大きな影響を及ぼした。
デザイナーたちは、物資不足や戦禍に見舞われ、事業の継続すら危ぶまれる状況に置かれていた。
しかし、その中にあってシャネルは、危機を乗り越え、ブランドの存続を賭けた経営改革に着手する。
1939年、第二次世界大戦の勃発により、シャネルは自身のメゾンを閉鎖せざるを得なくなった。
物資の配給が困難になり、華やかな装いは時代に馴染まなくなっていたのである。
しかし、彼女は決して諦めることはなかった。
戦時中を通して、シャネルは静かに活動を続けていたのだ。
戦後、彼女は再び表舞台に登場する。
しかし、時代は一変していた。
ファッション業界は大きな転換期を迎えていたのである。
シャネルは、自身のブランドを立て直すべく、果敢な変革に乗り出した。
ミニマリズムを基調とした新しいデザインは、戦後の女性たちに多大な支持を集めることになる。
シャネルのデザインは、単なるファッショントレンドの一つではなかった。
それは、社会的・文化的な変革の象徴でもあった。
戦時中の実用性を重視するスタイルから一転し、女性の自由と独立を表現するものへと変貌を遂げたのである。
華美さを排し、シンプルでありながら洗練された佇まいは、戦後の時代精神を見事に反映していた。
しかし、シャネルにとってこの時期は決して楽ではなかった。
長年連綿と続いてきたブランドの伝統を守りつつ、同時に時代の変化に応じた新しいデザイン性を示さなければならなかった。
ファッションの最前線に立つシャネルは、常に「新しさ」と「伝統」のバランスを保ち続けなければならなかった。
1950年代以降、シャネルはさらなる飛躍を遂げる。
自身のデザインがパリの社交界で絶大な人気を博するようになったのだ。
エレガントな女性らしさと機能性を兼ね備えたシャネルのスタイルは、次第に世界中に広がっていった。
しかし、1971年、シャネルは80歳の生涯を閉じる。
彼女の死後、ブランドは一時期沈滞期を迎える。
伝統的なアイデンティティを失いつつあったのである。
やがて、1980年代後半になると、シャネルは新たな飛躍を遂げる。
ブランドの再興を目指して、経営陣は果敢な改革に乗り出したのだ。
そして、2000年代以降、シャネルは持続可能な企業として生まれ変わっていく。
今日、シャネルは、確固たるブランドアイデンティティを持ち続けている。
華やかな歴史と伝統を背景に、時代とともに進化し続けているのである。
その変遷の軌跡は、ファッションビジネスの歴史そのものだと言えるかもしれない。
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伝統を継承しつつ、時代の変化に応える
1970年代以降、ファッション業界は大きな変革期を迎えていた。
戦後の華やかさを経験したブランドたちも、新しい時代の波に飲み込まれていく。
大量生産時代の到来や、若者文化の台頭など、社会的潮流の変化に迫られる形となったのである。
この転換期において、多くのブランドが伝統を継承しつつ、時代の変化に適応する努力を重ねた。
それは決して容易な道のりではなかった。
既存の価値観に縛られながらも、新しい可能性を模索する。
デザイナーの創造性と、企業の戦略性が問われる中で、ファッション界は次なる発展を遂げていくことになる。
1970年代、ディオールは伝統的なオートクチュールの枠組みから脱却し、プレタポルテ(既製服)への本格参入を果たした。
伝統的な「高級注文服」の世界から、一般消費者に向けた「既製服」の販売に舵を切ったのである。
これは、ファッション業界全体が歩む道のりを象徴する出来事といえよう。
同時期、シャネルもまた、自社の歴史に立ち返りながら、時代にマッチした商品開発に乗り出していく。
ココ・シャネルの没後、一時期下火になっていたブランドイメージを立て直すべく、新しいデザイナーの登用が図られた。
そして1983年、ワルター・ドゥ・シルヴァがシャネルのクリエイティブ・ディレクターに就任。
彼の手によって、シャネルのクラシックなアイデンティティが現代的に蘇ったのである。
このように、1970年代以降のファッション業界は、伝統の継承と、時代の変化への対応という両立を迫られていた。
既存のブランドが新しい息吹を得るためには、創造性と革新性が不可欠だったのである。
そして1980年代になると、新興デザイナーの台頭が目立つようになった。
従来のメゾンに囚われることなく、自由な発想でファッションを切り開いていく存在たちが台頭したのだ。
代表例としてあげられるのが、レイ・カワクボやイッセイ・ミヤケらの日本人デザイナーたちである。
彼らは、日本の伝統的な美意識や素材への探求心を基盤に、ヨーロッパのファッション界に新風を吹き込んでいった。
レイ・カワクボの「暗黒」のイメージや、イッセイ・ミヤケの「プリーツ」テクノロジーなど、従来の常識を覆す斬新なデザインは、一大旋風を巻き起こすこととなった。
既成概念にとらわれない自由な発想が、新しい可能性を切り開いていったのである。
このように、1980年代以降のファッション業界は、既存ブランドの再興と、新進デザイナーの登用という二つの潮流に特徴づけられる。
伝統の継承と革新の両立が、ファッション史の大きな転換点となったのだ。
そして2000年代以降、さらに大きな変化の波が押し寄せている。
それが、サステナビリティへの意識の高まりである。
大量生産、大量廃棄の構造から抜け出すべく、ファッション業界全体が環境配慮型の生産や、リサイクル素材の活用に乗り出している。
ルイ・ヴィトンやグッチ、プラダなどの老舗ブランドも、自社のアーカイブを活用したサステナブルなコレクションを発表するなど、時代の要請に応える努力を重ねている。
単なる伝統の継承だけでは通用しなくなってきたのである。
このように、ファッション業界は、常に時代の変化に適応し続けてきた。
伝統を大切にしつつ、新しい可能性を切り開いていく。
その歴史は、まさに現代社会の縮図とも言えるだろう。
ファッションが映し出す時代の移ろいを辿ることで、私たちは、ひいては自身の歴史をも理解することができるのである。
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ランバンが築いたファッションと文化の遺産
ランバンが築いたファッションと文化の遺産
ランバンは、20世紀前半のファッション界を代表する巨匠の1人である。
華麗で洗練されたスタイルは、パリのエレガントな女性像を確立し、ファッションと文化の深い結びつきを示した。
その足�cross歴は、女性解放運動の歩みとも重なり合う。
ミニマリズムの源流としての意義も指摘されるランバンの功績は、現代ファッションにまで大きな影響を及ぼしている。
ランバンの創業者であるジャンヌ・ランバンは、19世紀末のパリで裁縫店を営む出自だった。
しかし、彼女の手腕は次第に評判となり、やがて高い地位を占めるようになる。
1889年、ランバンはパリのリュクサンブール公園近くに自身のアトリエを開設した。
当時の高級ファッションは、華やかで複雑な装飾を施した宮廷風の様式が主流だった。
ところがランバンは、その概念に挑戦するような、洗練された簡潔なデザインを打ち出していく。
この新しい「ランバン・スタイル」は、すぐさま女性たちの支持を集めた。
贅沢な装飾を排し、リラックスした着心地を提供するそのアプローチは、必ずしも男性中心的ではない社会の中で、女性の自由な生き方を後押ししたのである。
ミニマリズムの源流とも評されるランバン・スタイルは、ファッションを単なる見栄えの道具としてではなく、女性の社会進出を象徴する文化的表現として位置づけた。
20世紀初頭のパリは、政治的・社会的な変革の時代だった。
女性参政権を求める運動が高まる中、ランバンのデザインは、そうした女性解放の機運に呼応するものとなった。
丸みを帯びた肩と細いウエストのシルエットは、女性らしさを重視しつつも、自由な活動を妨げない実用性を両立させていた。
ランバンは、装飾を削ぎ落とし、女性の身体を際立たせることで、男女平等と女性の社会進出を後押ししたのである。
1920年代、ランバン・スタイルはパリの社交界を席巻した。
ココ・シャネルらと並び、エレガントな女性像を確立したランバンは、その地位を不動のものとしていく。
1925年には、パリ万国博覧会でも高い評価を得た。
このように、ランバンは単なるデザイナーにとどまらず、時代を先取りする文化の担い手としての役割を果たしていったのである。
しかし1930年代以降、ランバンは徐々に地位を低下させていく。
デザインの概念が変化し、より個性的なスタイルが求められるようになったためである。
さらに第二次世界大戦の勃発により、ランバンの事業も大きな打撃を被った。
経営難に陥ったランバンは、1946年に事業を息子のシモンに譲渡することとなる。
戦後、ランバンはシモンの手により再興を果たす。
しかし、初期の華やかさは失われ、他ブランドに先を越されていく。
1950年代以降、ランバンは歴史的ブランドとしての地位を保ちつつも、徐々に影響力を失っていった。
にもかかわらず、ランバンが築いた足跡は消えることはなかった。
自由で洗練されたランバン・スタイルは、20世紀ファッションに不可欠な要素となり、現代に至るまで受け継がれている。
特にミニマリズムの源流としての意義は大きい。
シンプルながらエレガントな装いを提案したランバンは、女性の自己表現の可能性を広げ、ファッションと文化の深い結びつきを示したのである。
このように、ランバンの歴史は、単なるファッションの変遷だけではなく、社会変革の軌跡でもあった。
パリのエレガントな女性像を確立し、ファッションを通じて女性解放運動を後押ししたランバンの功績は、今日でも色あせることのない重要な意義を持っている。
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150年を経ても色褪せぬ、ランバンの魅力
150年を経ても色褪せぬ、ランバンの魅力
ラフ・ランバンは、単なるハイブランドの創始者ではなかった。
彼はファッションを通じて、時代の変化に呼応しながら、女性の社会的地位の向上に大きな影響を及ぼした先駆者なのである。
ランバンの歴史に学ぶことは、現代の私たちにとって重要な示唆を与えてくれる。
伝統と革新のバランスを保ちながら、常に時代の先駆けとなるブランドを築き上げていく姿勢は、今日のファッション産業にも示唆的だといえるだろう。
ランバンの創始者ラフ・ランバンは、1889年にフランスのパリに生まれた。
彼はもともと仕立て職人の家に育ち、自らも裁縫の技術を身につけていた。
1890年代、ランバンは自身のアトリエを構え、貴族階級を中心に注文服の製作を手がけるようになる。
当時の上流階級の女性たちに、優雅で格式高いデザインのドレスを提供していったのである。
やがてランバンは、華やかな貴族文化に呼応しつつも、時代の変化にも敏感に反応し始める。
20世紀初頭、女性の社会進出が広がるなか、ランバンはそうした女性たちのニーズに応えるべく、よりシンプルで実用的なデザインへと移行していった。
1910年代には、ウェストラインを上げた丸襟のドレスなど、機能性と優雅さを兼ね備えたスタイルを次々と発表していった。
1920年代には、いわゆる「フラッパー」と呼ばれる新しい女性たちの台頭とともに、ランバンのデザインはさらに革新的な方向性を見出す。
タイトなウエストラインと膝丈のスカート、大胆なビーズ装飾など、女性の自由な身体表現を後押ししていったのである。
当時の人々を驚かせたランバンの斬新なデザインは、やがて20世紀ファッションの大きな潮流となっていく。
短髪、ペイントの化粧、喫煙といった新しい女性像が、ランバンのドレスによって具現化されていったのだ。
第二次世界大戦の到来とともに、ランバンは一時的に下火となるが、戦後の復興期には再び脚光を浴びることになる。
1950年代、ランバンはオートクチュール(高級注文服)の分野で絶頂期を迎え、多くの女性たちから支持された。
その優雅で洗練されたスタイルは、戦争の傷跡を癒すかのように受け止められていった。
しかし1960年代以降、ランバンは徐々に影響力を失っていく。
大量生産体制に乗り遅れ、ブランド価値の維持に苦戦する。
さらに創業家による経営が続いたため、時代の変化に迅速に対応できなかった。
そうした中で、1990年代以降、ランバンは再びブランドの復権を果たすことになる。
デザイナーの交代や、オーナー交代などを経て、伝統的な高級感と、時代のトレンドを巧みに融合させたデザインを生み出すようになったのである。
現代のランバンは、ファッションの歴史に大きな足跡を残した先駆的ブランドとして、なお高い評価を受け続けている。
150年の歴史を経ても色褪せぬ魅力は、時代と共に進化し続けるブランドの在り方を示唆しているといえるだろう。
人々の価値観やライフスタイルが激しく変容する中にあって、ランバンはいかにして伝統と革新のバランスを保ち続けてきたのか。
その秘訣こそが、ファッション業界全体に通用する示唆に富んでいるのではないだろうか。
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CONCLUSION
本記事では、老舗ラグジュアリーブランドの150年の歴史から学ぶことから始まり、19世紀末パリ、服飾界に新風を巻き起こした一女性、世紀転換期の波乱と躍進 ─ ランバン一家の挑戦などを含む6つの重要なテーマについて詳しく解説しました。
この知識を活用して、さらなる理解を深めていきましょう。
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